それがすべてをキリストに明け渡した者の良い知らせなのであります。キリストによって本当に虜にされると、すべてのことが起こり、どんなこと
も起こり得るのです。それがパウロとピリピの人々にとって意味を持った事柄でした。キリストはまさしく彼らを魅了したのです。彼らは人生においてキリスト
以外のどんなことも考えませんでした。彼らには仕事があり、商売があり、職務があり、世の中の生活や関心において別の歩みがあったかも知れませんが、彼ら
は一つの支配的な考え方、関心、興味であるキリストを持っていました。彼らにとって、キリストがあらゆることにあって休息所であったのです。そのための適
当ないかなることばもないのです。キリストがまさしく彼らを虜にしたのです。
そして、親愛なる皆さん、それが、どんなに単純に響こうともすべ
てのことを説明するものだと私は思います。それがパウロを説明し、このピリピの教会を説明し、信者やクリスチャン相互の愛を説明しています。それがあらゆ
る彼らの問題を解決し、すべての困難を解き放ったのです。ああ、これこそ私たちが必要としていることです! もし皆さんも私もこのようでさえあるなら、も
し私たちが
本当にキリストによって捕えられているならばです。私はそのことを皆さんにうまく伝えることはできないのですが、私がその真理を見たときに、つまりそれを
見て、
読み、そのことについて考えたとき、私は自分のうちに何かが働くのを感じ、そして説明できない何かを感じたのです。
結局、私たちの全ての悩みの十中八九は、私たちに影響を与え、私たちを支配し、動かす個別の関心が他に、つまりキリスト以外の別の観点を持っ
ているという事実から説明できるのです。もしキリストが私たちをとりこにし、魅了し、支配し、そう、こんなことばを用いてもいいなら、とりつかれる、栄光
あるとりつかれとなるならば、です。賛美歌作者が次のように書いた時、このことを言おうとしたのだと思うのです。「イエス様、私の愛する人」そしてさらに
彼は歌います。「私はあなたのうちにすべてにまさるものを見いだします」と。そうであれば、私たちは喜びで満たされるのです。「諦めねばならない」という
悔いは一切ありません。喜びに満ち、勝利に満たされるのです。敗北の精神は一切ありません。大きな勝利の喜びです。生活の上におよぶキリストの勝利です。
そうです。それはかつてあっ
たのです。あったのですから、再び今もあり得ることがらなのです。
しかし、このことは頭で理解する以上のものを必要とするのです。私たちはそれほど容易にその要点を見失いやすいのです。私たちはことばや考え
を賞賛するかも知れません。すなわち美しいものとしてそれを本来の価値から落としてしまうかも知れないのです。しかし私たちが必要としているのは自己をな
くすことに専念すること、つまり私たちや私たち自身の栄誉に関するすべてのこと、評判を捨てることであり、魅了されるお方は見えるかぎり唯一の方にあり、
評判も唯一の方であり、私たちはそのお方の足元に下るということです。これが福音なのです。良き知らせです。キリストが本当に、心の中心になる時、このピ
リピ人への手紙にある事柄が起こるのです。それは本当なのです。主なる神様に、自らの人生が主の愛する御子のとりことなりますようにと、求めようではあり
ませんか。
(今日の箇所は The Gospel According to Paul - Chapter 5 の
抜粋引用訳です。と言っても久しぶりに取り組みましたので、相当勝手な文章になっています。正しくはいつも通り原文に是非目を通してください。原文は
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003511.htmlです。)