2011年12月28日水曜日

あなたを愛し慕います

新しいカップルの誕生
私にとって生きることはキリストです。(新約聖書 ピリピ1:21)

 それがすべてをキリストに明け渡した者の良い知らせなのであります。キリストによって本当に虜にされると、すべてのことが起こり、どんなこと も起こり得るのです。それがパウロとピリピの人々にとって意味を持った事柄でした。キリストはまさしく彼らを魅了したのです。彼らは人生においてキリスト 以外のどんなことも考えませんでした。彼らには仕事があり、商売があり、職務があり、世の中の生活や関心において別の歩みがあったかも知れませんが、彼ら は一つの支配的な考え方、関心、興味であるキリストを持っていました。彼らにとって、キリストがあらゆることにあって休息所であったのです。そのための適 当ないかなることばもないのです。キリストがまさしく彼らを虜にしたのです。

 そして、親愛なる皆さん、それが、どんなに単純に響こうともすべ てのことを説明するものだと私は思います。それがパウロを説明し、このピリピの教会を説明し、信者やクリスチャン相互の愛を説明しています。それがあらゆ る彼らの問題を解決し、すべての困難を解き放ったのです。ああ、これこそ私たちが必要としていることです! もし皆さんも私もこのようでさえあるなら、も し私たちが 本当にキリストによって捕えられているならばです。私はそのことを皆さんにうまく伝えることはできないのですが、私がその真理を見たときに、つまりそれを 見て、 読み、そのことについて考えたとき、私は自分のうちに何かが働くのを感じ、そして説明できない何かを感じたのです。

 結局、私たちの全ての悩みの十中八九は、私たちに影響を与え、私たちを支配し、動かす個別の関心が他に、つまりキリスト以外の別の観点を持っ ているという事実から説明できるのです。もしキリストが私たちをとりこにし、魅了し、支配し、そう、こんなことばを用いてもいいなら、とりつかれる、栄光 あるとりつかれとなるならば、です。賛美歌作者が次のように書いた時、このことを言おうとしたのだと思うのです。「イエス様、私の愛する人」そしてさらに 彼は歌います。「私はあなたのうちにすべてにまさるものを見いだします」と。そうであれば、私たちは喜びで満たされるのです。「諦めねばならない」という 悔いは一切ありません。喜びに満ち、勝利に満たされるのです。敗北の精神は一切ありません。大きな勝利の喜びです。生活の上におよぶキリストの勝利です。 そうです。それはかつてあっ たのです。あったのですから、再び今もあり得ることがらなのです。

 しかし、このことは頭で理解する以上のものを必要とするのです。私たちはそれほど容易にその要点を見失いやすいのです。私たちはことばや考え を賞賛するかも知れません。すなわち美しいものとしてそれを本来の価値から落としてしまうかも知れないのです。しかし私たちが必要としているのは自己をな くすことに専念すること、つまり私たちや私たち自身の栄誉に関するすべてのこと、評判を捨てることであり、魅了されるお方は見えるかぎり唯一の方にあり、 評判も唯一の方であり、私たちはそのお方の足元に下るということです。これが福音なのです。良き知らせです。キリストが本当に、心の中心になる時、このピ リピ人への手紙にある事柄が起こるのです。それは本当なのです。主なる神様に、自らの人生が主の愛する御子のとりことなりますようにと、求めようではあり ませんか。

(今日の箇所は The Gospel According to Paul - Chapter 5 の 抜粋引用訳です。と言っても久しぶりに取り組みましたので、相当勝手な文章になっています。正しくはいつも通り原文に是非目を通してください。原文は http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003511.htmlです。)

2011年12月15日木曜日

霊的感覚の訓練

懐石料理11の紹介(by Keiko.A)
9.食事 Essen
10.止椀 Schüssel Suppe für Ende 
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(新約聖書 ヘブル5:14)

 生まれながらの人間には五感が与えられています。すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚です。こういうものが肉体に与えられた五感です。しかし、「心の中の隠された人柄」と言われる内なる人にもあります。そしてその内なる人には外なる人の五感に匹敵するものがあるのです。霊的な視力、聴覚、嗅覚、味覚、触覚が、それです。こういう感覚は内なる人の生活にとって大変重要です。そうです、肉体の感覚よりもはるかに重要です。

 私たちは外なる感覚のうちどれか一つでもなくしてしまった人の悲惨さがどのようなものかを知っています。それは大きな損失であり、不完全ないのちであり、制限のあるいのちです。そのことは内なる人にとっても真実であります。霊的な視力なしにいることは悲しむべき損失であり制約であります。御霊に答える能力である霊的聴力を欠くことも同じであります。「耳のある者は御霊が言われることを聞きなさい」とあるとおりです。もし聞く力がないならそれは深刻な事態であります。

 もし感知しないならどんなに損害があることでしょう。その感知はすぐに感得する嗅覚のように知りうるものです。それが異端や欠けあるものや間違っていることをかぎつけようとしてはどんなに間違って用いられたかを知ります。非常に重要な霊的嗅覚の正しい能力があります。それが主に関して言及がなされたことだと私は確信しています。「主の嗅覚は主を恐れるうちにあります」His scent shall be in the fear of the Lord(イザヤ11:3※)主が望んでおられることを嗅ぎ取ることをまちがわず、かつすばやく知ることであります。そして、それはどんなに主の天的な生活にとって真実であったことでしょうか。それは主が敵を感知し、その目論見を知るのに役立ったもの、また父なる神が望んでおられること、そして主が望んでおられる時でないと知ることでした。敏速な感知が重要なのです。そして私たちの味覚や触覚も同様に触れ合うことにより覚知するものです。

 これがまさしく本当の内なる人です。こういうものは霊的な資質の地盤から生ずる感覚であります。こういうものは訓練されるものであり、増進と発展のために「完遂される」 べきものです。
(ヘブル12章で使徒が神の世継ぎである子どもであることについて語り、それから9節で「霊の父」という語句を用いているのをご存知でしょ う。「私たちには肉の父がいて、私たちの肉の感覚が発展されること自然の領域での正邪を知る点にまで鍛え上げられることを知っていた。それゆえ肉の父は何が正しいか間違っているかを私たちは教えた」ところが私たちには霊の父がいるのです。私たちの霊的資質や感覚が父の関心事であります。霊の父は霊的な視力、聴力、嗅覚、味覚、触覚の各能力が発展することを主眼にしておられます。これが完全に成長した人とはどんな人であるかを説明することであります。)

(今日の箇所は Spiritual Exercise の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003498.htmlです。※イザヤ書原文の日本語訳は「この方は主を恐れることを喜び」であります。)

2011年12月7日水曜日

まことの聖所への道

風激しく裸木となった樹木 12/4 於 牛久市生涯学習センター
これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。(新約聖書 ※ヘブル9:8、24)

( さて、ヘブル人への手紙があらかじめ何らかのことを見越して書かれていたことを覚えていらっしゃいますか。使徒はそのようなユダヤ教の全体系が間もなく灰塵に帰することを知っていました。主イエス様はそのことを預言して石は積まれたままで残されることはないと言われました。ユダヤ教は4つの嵐に見舞われるのです。すなわち宮も、天幕も、いけにえも、祭式も、祭司者もなくなるのです。すべてのことが終り、神の預言が実現し粉々に砕かれるのです。彼らの神との交わりがそのようなものと結びつけられているなら、これらの人々はどうなることでしょうか。それはなくなるのです。体系ごとなくなり、神は人々がそのようなものから救い出されることを望んでおられました。地上にしばられていたものがなくなり、救いに属する新しいものへと移行されるのです。)

 神との交わりは私たちが集いに行けるかどうかにかかわらず私たちが主につながっているというその種のものであらねばなりません。私たちがすばらしい心を満たす音楽を持とうが持つまいが主としっかりつながることです。私たちはそのような地上的な領域には属していません。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」(訳注:ヨハネ4:21)

 レンガとモルタルは霊を満たすことはできません。人のたましいは神とつながりのある霊という媒体を通してしか神と交わることはできません。それがカルバリの十字架がなしたことなのです。もちろん、みなさんは十字架のメッセージがなぜ受け入れられないかを理解しておられるでしょう。もしみなさんが十字架を受け入れ支持するなら、歴史的で伝統的な遺産に強力な分裂をもたらすという理由のために宿営の外に追い出されることでしょう。恐ろしいことです。サタンは神が伝統的なものを廃棄されたとき、神の代理権あるいはその遺産を適用する典型的な仕組みを制したのです。神が時期にかなった計画を実行されたことをサタンは神との真の交わりの性質をあいまいにしてとりこにしようと夢中になったのです。

 さて、どなたも 私がそのような仕組みの中には霊的な人々はいないと言っているとは思われないでしょう。私はそんなことを言っているのではありません。しかし、私の言いたいことは次のことです。もしその伝統がその人たちにとって霊的ないのちに置き換わるものであったり、その伝統を持たねばならないとし、かつその伝統に生かされていて、それを越えて物事は見ないし、またそこからは自由になれない領域であるとするなら、その人々はカルバリの十字架の意味をはき違えたのだし、十字架につけられたキリストの意味、すなわち神の叡智と力を全く取り違えているのです。この世の主権と権力と戦うことは外面的な事柄以上のものを要求するのです。

 ご存知の通り私たちは恐ろしい働きに直面しています。すばらしい霊的な立場に直面にしており、霊的な立場が唯一それこそふさわしいのです。私はみなさんが十分な光を、いただいて、これまで言われて来たことが正しいと知られると確信しています。私たちは主が私たちに最初に最上として与えられた立場以下のいかなる立場も取りたくありません。私たちは神のめぐみによって私たちのために神が第一の地位にあるように最大の犠牲を払う用意があることを確信します。私たちが主とともに歩み続け「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」(訳注:ピリ ピ3:13)めますように。そしてもう一度「みもとに行こうではありませんか」(訳注:ヘブル13:13?)とヘブル人への手紙のところに来ることができますように。

 おもちゃや絵本や挿絵や像や型はほとんど知性のない子どもたちのためにあります。それ らは神の意図が子どもを持つことでなく、息子を持つことが明らかになる時には取り上げられます。二つのもの(訳注:こどもと息子)の間には大きな違いがあるのです。だからカルバリの十字架は神とのつながりが外形的な事がらに過ぎない幼稚園からは離れ、私たちが神の息子として精一杯成長する天的な秩序の満たしをもたらすのです。願わくは私たちがそうでありますように。

(今日の箇所は Christ the Power of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003487.htmlです。久しぶりの訳業です。この半月ほどオズワルド・スミスの本を松代幸太郎さんの訳で数冊読み、魅了されてきました。英文を読むより、日本語訳を読む方がさまざまなことがわかり、一年弱オースティン・スパークス氏の文章につきあってきて、英語読解力がなく、多くの時間をささげたため、失ったものがあることを知りました。けれどもこうしてまた曲がりなりにも最後の月に翻訳に戻れたことを感謝します。ただこれまでの訳と違い、逐語訳にはなっていず、また正確な訳ではありません。英文に触発されてこのような意味でないかと思う私のことばが先行しているところがあります。英語読解力のある方は是非英文そのものをお読みくださいますようにお願いします。なお、今日の引用聖句はサイトではヘブル8:3、13と書いてありますが、文章そのものはヘブル9:8、24ですので、そのように訂正しました。)