実のある木 プルンを食べた 懐かしき 南ドイツを また歩きたし |
あらゆるものの価値はその価値が生きているところにあります。聖書の価値は私たちが聖書を知り、自由に操り、説明を(素晴らしい説明を)するところにはありません。また聖句を見事に、正確に引用するなど、その手のことができるところにはありません。キリストの仲間、クリスチャンという名がつけられることにもありません。またこの偉大な(御国の)相続や教えを保持することでもありません。そうではなく、それ自身があらゆる仕方で生きているということです。すなわちキリストのこのよみがえりのいのちが明らかになるべきであります。彼らはそのことを全く経験していませんでした。残りすべてを持っていても試練に会った時どうにもならなかったのです。それは言い方は強いですが、言うのはきついです。(That is a strong thing to say, it is a searching thing to say.)あなたはクリスチャンの言い伝えとたくさんのクリスチャンの教えを身につけており、恐らく聖書を非常に良く知っておられることでしょう。あるいはあなたがなすこと、恐らく仲間内で多くの役に立つことを考えておられることでしょう。しかしその問題が生ずるのです。あなたはそれを全部知っていますか。またあなたはそれを全部、すなわち教え、真理、聖書知識、交わりを全部獲得していますか。それはそういうことではないのです。あなたはすべてのものを持つこ とはできるが、あなた自身がすべてのことにおいて生きた要因となるこの何か生き生きとしたものによって刻印されていないことはあり得るのであります。あなたは依然として乗り物で言えば乗客的存在であり、恐らく寄生的な存在でしょう。あなた自身、本当はその価値のうちにいないのです。そのことについて正直で ありましょう。私たちはこのことを自分の問題として立ち向かう必要があります。
その答えは復活にあります。それがこれらの人々に対する答えでありますが、私たちにとってもそれが答えです。私がこのことによって言おうとしていることは歴史的事実やクリスチャンの信条の一部ではないということです。復活は歴史的な事実であることはもちろんのこと人を生かす原則であります。それは強力な力として知られたり、経験されたり、そして目的に向かって貫通するのにふさわしいと絶えず表現されるものとして先行しており、持続するものです。それが復活であり、その答えがそこにあるのです。それは復活は単にイエス様とともに起こっただけでなく、私たちのうちにあって起こり、私たちの内側に起こったことであります。イエス様のよみがえりのいのちによって私たちがイエス様と一緒によみがえらされたということを知らせる先ほどのことと同等のものがあります。そしてそれはまた単なる教義ではありません。それは本当であり、生きた真理であり、相当の昔にエルサレムにあったことはもちろんのこと、私たちに今起こることであります。単なる歴史や伝統ではなく、それは経験であります。
(歴史は私たちに何を教えますかということを尋ねられた時、誰かが歴史は私たちに歴史が何も教えないということを教えるのだと答えたということです。そしてそれは大変うがった言い方です。過去の戦争の歴史、それが私たちに教えたことは私たちに何を教えますか。「歴史は私たちに何も教えないということを教えるのです」そしてそれはあらゆる実際的な目的や完遂にとってキリスト教の教義とともにそのようになり得るのです。それは依然として私たちの現在の生活と関係のない重要な事実であるかも知れません。しかしそれは役に立たないでしょう。)
私たちはイエス様が死者からよみがえったことを信じるだけでなく、私たちがイエスとともにそのよみがえりにあって、そしてその立場に立って生きるようにならねばなりません。
(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003344.htmlです。)