2011年9月30日金曜日

まことの神が示される彼岸の世界

この地に住み着いて、かれこれ30数年経つが、この一帯は初見であった。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。小さい者たちよ。今は終わりの時です。(新約聖書 1ヨハネ2:17〜18)

(ヨハネは終わりの時に対して「小さい者たちよ。今は終わりの時です。」(1ヨハネ2:18)と書きました。それなのに、彼はその終わりの時に始めを持ち出したのです。「初めからあったもの、・・・」(1ヨハネ1:1)しかしヨハネがこういう時のしるしを感じている一方、彼は永遠なることに関心を払っています。ですから私たちは始めへの言及と終わりの時への言及の間にいつまでものこるものに対する言及がなされていることを知るのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:17)したがってヨハネの手紙には、始まりがあり、最後の時があり、「永遠」が書かれているのです。
 そのことに言及するのは手紙がふくんでいる全てのことはそのことと密接な関係があるからです。そしてこの手紙においてはこの終わりの時の特別な性格と目的の全要素があり、終わりの時に神がいつまでものこるものを産み出そうと意図されていることがあるのです。もちろん、ヨハネの手紙にはパウロをとおして私たちに示されたような奥義の完全な順序はありません。しかし私たちは終わりの時のすべての霊的な要素、神の私たちに対する取り扱いを支配している重要で根本的な霊的実在を手にしているのです。
 たとえば、まことの人の子としてのキリスト、かしらとしてのキリス トです。交わりという点ではキリストにある神と私たちは一体であります。また、私たちはイエス・キリストの血潮、神の御子、みことばと御霊という重要で支配的な実在を知ります。さらに永遠のいのちという重大で基礎的な原理、反キリストのうちにあるサタンの偽りの働き、信者の交わり、お互いの間の愛について言われていること、きよいいのちを知るのです。確かにこれらはこの特別な終わりの日に人々とともに神の働きをしなければならない重要な要因であり霊的な要素であります。
 第一の私たちの考察はこの文頭の意義にかかわることです。「初めからあったもの」私たちは終わりが初めによって支配されていることを大変注意深く認識する必要があります。そのことを考慮に入れ、心に留めることは大変重要なことです。「小さい者 たちよ。今は終わりの時です。・・・」終わりの時に関連して、初めからあったものが完全に現されるのです。ヨハネが見ていることは明確にかつ容易に体験され得るということです。別のことばで言えば、ヨハネはこう言っているのです。「小さい者たちよ、私たちは終わりに来ています、終わりの地点に立っています。今私たちは到達したもの全てが初めからのものであることを知りたいのです。それは終わりの時に初めの良いもののうちに立っていることができるようになるためです。また初めに出現したものが終わりに損なわれることもなく、弱められることもなく、完全に明確にここにあるようにというためです。
 ヨハネの言わねばならない全てのことは(小さな範囲に大変多くのことが集約されているのですが)初めにあったものを詳細に調べることですが、その始まりは終わりの民にあっては損傷することなく見出されることが約束されているのです。その道筋を取るように導かれるに際して彼は事実上次のように言うのです。「私たちは将来さばかれます。すべてのものが始めにあったことによって終わりの時にさばかれるのです。私たちは終わりの時にその基準に達しなければなりません。そして終わりの時にその光の中に十分立ち続けなければならないのです。」
 さあ、それでは手短に出来る限り、その重要性を把握出来るように分けて考えましょう。(中略)

 今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。)

地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。


「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それはなくなることでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。


私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらからでさえ、そこから救い出して、主御自身のもとへと行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003383.htmlで す。この文章はこのブログでも何度か登場したもので、今日の該当箇所はこの文章全体の末尾に当たるものですが、すでに5月13日に「天に属する民」という題で訳しているものです。その後4ヶ月は 経っているのですが、訳業は進歩せず、逆に今日の時点で訳してもそれ以上の訳が見出せませんでしたので、その部分は再録することにしました。ただしこの一 章の冒頭部分を今回は増し加え小さい文字で掲載してあります。お読みいただければ幸いです。なお中略の部分で小見出しで以下のことが語られています。「始まりが終わりの支配的基準である」The Beginning Remains the Governing Standard to the End )「特に強調しなければならないこと」(A Special Emphasis)「神の始まりであるキリスト」(Christ as God’s Beginning)「天の啓示」(A Heavenly Revelation )「天にある満たし」(A Heavenly Fulness )「キリストはすでにすべてのものを集め、天に移されている」(Christ has Gathered up Everything and Transferred it into Heaven))

2011年9月29日木曜日

召されていることの重要性

木曽川に架橋する赤い鉄橋。緑に映える。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(新約聖書 1コリント2:14)

精神の働き、情動的な生活、そして意志はまさしく新約聖書が生まれながらの人間と称するものであります。生まれながらの人は「たましいある」人として、神の御霊から生まれるものは受け入れることができないのです。

ほとんどすべてのいわゆるリバイバルはこの基盤の上で起こってきました。リバイバルは感情をゆさぶる強力な運動でした。強力な説得力や論証が人の理解力や意志に影響を与えたものでした。その結果はどうだったでしょうか。生まれながらの人間がキリスト教にうまく誘導されてクリスチャンとされたのです。しかし、 私たちは、ここに神の考えを知ることはできません。そのことは新しく神の子とされるということと無関係であるからです。

(神のことばによるなら、人はからだ、たましい、そして霊を持ちます。キリストは言われます。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:6)

「新しく生まれ変わる」ということは上記のリバイバルの中で起こったかも知れません。しかし申し上げますが、精神的な生まれ変わりと、御霊にあっての生まれ変わりとの間には違いがあります。その一つは本当の生まれ変わりの特徴的な性格をすべて一時的にもたらすことができるかもしれません。しかしそのすべては必ずしも御霊と何の関係もないのです。数えられないほどのケースにおいて過去御霊と関係がなかったのです。それは人の働きだからです。

(こういうしばしば上手に意図された努力の悲惨な実が、荒廃しているのです。どれほど上手に悪魔が惑わせるものであるかを知ります。すなわち悪魔がすべての異教徒的なシステムを何とかこっそりと持ち込み、)

神の考えとは共通するところが何もないシステム、キリスト教にするかということであります。教会との関連において同じものを見ます。キリスト教は神の考えの人間の解釈の体系となってしまいました。霊的な死がキリスト教に覆いかぶさっているのです。そこには神の生きた証は存在しません。

神は私たちに神の考えに関して心に重荷を与えられてきました。批判するために語るのではありません。そうしなければならないから語るのです。

(悪魔の力は人々のたましいの豊かさを自由に操れるところを操作するのです。悪魔は人のたましいのうちに自らに役に立つ提携をとおして自らの目的を遂行するのです。それが神が人を彼自身から救い、神のもとへと救い出すために大変な骨折りをしなければならない理由です。
 私たちはこれまで預言者の宣教は人々を神の考えにもどすように先導することにあったと言ってきました。それが神の民の間の宣教でありました。それは神の家にある神の権利・力についてでした。
 もう一度エリヤに戻り、どのように事が始まったか注目しましょう。それは主がエリヤに言われたことから始まっています。「アハブに会いに行け。」(1列王記 18:1)三年半以前主は言われました。「身を隠せ。」(1列王記17:3)預言者はそのためその時までずっと身を隠してきたのです。しかし、今や神のことばは「アハブに会いに行け。」でした。エリヤはアハブに対峙します。アハブがその時言ったことを思い起こします。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」(1列王記18:17)

神の権利を保持して立つ人々は神の考えを拒絶する人々によってつねに敵とみなされます。(※)

(エリヤの視点とアハブの視点があります。「イスラエルを煩わすもの。」というアハブか。それとも「私はイスラエルを煩わしません。しかし、あなたは」(1列 王記18:18)と答えることのできるエリヤか、です。本当は煩いはどこから生じたのでしょうか。神が望まれる道を求めている人々の側から生じたことですか。神、およびその権利を否認する人々の側から生じなかったのですか。主とともに完全な道を進みたくない人々、心に神の考えを持たない人々、彼らが神の敵であります。
 私たちはどちらの側に立ちたいですか。それが真の問いであります。それが今問題にしていることです。私たちはエリヤがどのように自分自身の生涯を述懐したかを知ります。すなわち「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。」(1列王記19:14)エリヤは神が望まれることの明確な見取り図を心に持っています。彼はまた見通すことができ、神の考えと一致しないことを認識できるのです。しかし彼自身はこれらのことの局外に立っています。彼は外部的な状況に巻き込まれません。それが彼が神に自由に用いられ得る理由であります。彼の献身には神の証を完全に回復するために必要で十分な犠牲を払う意欲がふくまれているのです。その結果としてこのような証者が敵として反対されることになるのです。)

宗教的なシステムが支配するようになるところではどこでも、つねに証者は、神の人々に混乱をもたらす者は彼らだと責められることでしょう。このことが宣教を非常に難しくさせるのです。これが宣教を非常に骨の折れることとするのです。しかしこの全ての背後にバアルがいました。エリヤはイスラエルに対抗したのではないのです。イスラエルは盲目にされて いた国民でした。バアルがその背後に立っていたのです。暗やみの力はイスラエルが身をまかしてしまった偶像崇拝のうちに働いていました。イスラエルは大層欺かれていたので、偶像崇拝の中で正しいことをしていると思わされたのです。これが最高度の欺きの段階であり、人がなすその全ては、また誠実に意図されているが、実際は悪魔に仕えていることを見ないことであります。

預言者の不同意は何をさておいてもイスラ エルに対してではありません。彼の戦いはイスラエルが巻き込まれているすべての霊的な体系とのものであります。「宗教的」な人々は、もし悪魔である敵が彼らを煽動しなかったら、預言者の宣教に反抗することさえしなかったでしょう。(ところが彼らは現にそうなっているのです)彼らは悪魔の道具となっています。しかし預言者はこれと戦う用意があります。彼は誤解され、中傷され敵と見られているのです。彼はイスラエルを煩わす者としてマークされています。

しかし彼には幻があります。彼は自分自身に仕えていないのです。彼は自らが立っているところは個人的な野心を入れる余地が残っていないことを知っているのです。しかし彼は神を見てきました。彼は神とつながっているのです。そして彼が神と持っている特別な立場で、神のものと人間のものとの違いが彼には啓示されてきたのです。この幻をもって彼は神の奉仕が必要としている犠牲を払うように用意できるようになっていたのです。

(私たちが自らの(神による)召しを良く知るということはどれほど重要なことでしょうか。それが私たちの宣教を決定するのです。)

(今日の箇所は "The Rights of God" - Chapter 4  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003392.htmlです。スパークス氏はこの文章の後半でパウロのエペソ人への手紙が書かれている状況について説明し、いかにパウロが旧約時代のエリヤと似ているかを説得的に語っています。是非、みなさんがこの続きをお読みになることをお勧め致します。なお※の原文はPeople that stand without reserve for the rights of God will always be considered as enemies by those who reject the thoughts of God であるのですが、前後関係から見るとどうみても、ここは「without」でなく、「with」であり、原文のミスプリでないかと考え本文中のように訳しました。どなたかご教示をお願いします。)

2011年9月28日水曜日

パン種に気をつけなさい

姫リンゴ、何とかわいらしい名前でしょう。
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(新約聖書 マタイ16:12)

世界をかき乱すものがこの世界にはいりこんできていました。あなたがたが幾分知っている、すべてこれらの恐ろしい戦争は、この世界にはいりこんできたこのかき乱そうとする影響の結果であります。この世には人間の性質を掻き立てる何かがあるのです。アルコールのように人々をお互いに対して戦わせるのです。それはこの世を不安定にするのです。人間の悪の性質をすべて興奮させるものを生み出します。それから再びこの世界にはいりこんできたこのものが結果として全く不自然な拡張、つまりにせの発展をもたらすのです。

(それは私たちが過去数年間見てきたことです。戦争の場合をとってみても、不自然なやり方でこの世界を発展させようとする試みであったのです。)

不自然な発展や拡張に結果するものはどんなものも悪です。使徒パウロは言いました。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言いま す。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。 」(訳注:ローマ12:3)私たちを不自然に大きくするのが悪魔です。それが個人の生活であれ、神様の働きと呼ばれるものであれ、本当の霊的尺度よりも大きくしようとし、本来の霊的水準よりも水増ししようとするものは悪いことです。それがパン種です。

(分離と破壊・分裂に結果するものはどんなものも悪です。分裂を言い訳しないようにしましょう。主の民の間にある分裂を好意的に見ないようにしましょう。もし分裂しているのが私たちのうちの二人だけであるなら、そのことの言い訳をしないようにしてこう言いましょう。「このことは間違っています。これは悪です。 あってはならないことです。私たちを分裂させる働きには何らかの悪が存在するのです」そしてそのことはちょうど二人の人々の間に本当であるなら、すべての主の民の間にあっても本当です。私たちは分裂を良いものとして見てはいけません。それらは悪いことです。そして私たちは神様が分裂に反対しておられることを知らねばなりません。神様は決してこのパン種の働きを許容されません。)

それでは事態を私たちの生まれながらの好みにすりよさせるパン種はどうなのですか。パウロはテモテに言いました。「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め(る時代が来るからです)」(訳注:2テモテ 4:3)そしてパウロは彼らが真理の代わりに嘘を信じるようになると言い続けます。それはどうしてですか。これらの教師たちが生まれながらの人間の性質にすりよろうとするからです。これらの教師は悪を覆い隠すのです。まことに彼らは時々悪を善と呼ぶのです。人々は彼らが間違っていること、あのことこのことは神様に相反するということを自分たちに話す教師を好みません。彼らはパン種のあるパンを好みます、それは肉を喜ばせるからです。

イエス様は言われます。パン種は将来もあるでしょう、腐敗、汚染はいたるところにあるでしょう、と。しかし新約聖書の教えはこうなのです。きよく保ちなさい。あなたの着ているもの(訳注:イエス様のこと)は汚されていないことを知りなさい。この罪に満ちた世をその性質にはあずからない者として歩みなさい。

いたるところにパン種はありますが、あなたはパン種のないパンであるべきです。しかしこの世はあなたを好まないし、これからもパン種のないパンを好まないでしょう。パン種のないパンは肉を喜ばせません。しかし、純粋なパン(訳注:パン種のないパン)は神様に喜ばれるのです。

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 30  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003391.htmlです。マニラで1964年になされた42 本のメッセージはいずれも内容が濃く、私たちに理解しやすいように語られています。訳していて、今の時代をそのまま照射するものとして身の毛がよだつ思い がします。預言の預言たるものの特質でしょう。なお聖書中に出て来るパン種を出エジプトからコリントの手紙に至るまで、そしてイエス様ご自身がパン種をど のように扱われたか詳細に述べています。特にマタイ13:33が13章全体の中でどのような意味合いを持っているかが語られています。念のためスパークス 氏が尊敬するF.B.マイヤーのものも参照しましたが、同氏も中庸を守っていますが、スパークス氏のパン種に対する見方がそれほどとっぴでないことがわかります。)

2011年9月27日火曜日

教会は協同する信者の集まりである

今日の大落古利根川の川縁
神は孤独な者を家に住まわせ・・・(旧約聖書 詩篇68:6)

エペソ人への手紙が他のものよりも高い位置にあるのはこのことなのです。つまり今やキリストと一緒によみがえらされ、天に座らされているのは、他の信者たちとつながってのことなのです。そのつながりの中にあなたがたは自分たちの完全な満たしを知るようになるのです。あなたがたは決して孤立したり、切り離された個人としてspiritual enlargement(霊的な拡大)を体験するのではなく、他の信者とのつながりのなかで体験するのです。「神は孤独な者を家に住まわせる」(詩篇 68:6)そしてこのことについてはあなたがたがその教義を理解しようが理解しなかろうが、受け入れようが受け入れなかろうが、そんなことにはおかまいなく、疑いがないことなのです。あなたがたは私たちの霊的な拡大は他の信者たちと真の霊的なそして天的につながる方法によって生ずるということを非常に急速に体 験をとおして理解できるのです。そのことはクリスチャンにとってきわめて長い間一緒に住むことは必ずしも容易でないという事実によって明らかにされます。それは言うのは恐ろしいことに響きますが、勘定に入れねばならないたくさんの他の要因があるのです。

もし、あなたがたがこの世の通常の人間であったら、きわめて上手にやって行けるかも知 れません。けれどもクリスチャンであるなら、あなたがたはサタンの全勢力に遭遇せねばならないのです。サタンは、生まれながらのいのち(訳注:古い性質)のどんなささいなものにも目をつけ、働きかけてくるのです。そのようにサタンはクリスチャンの間で、もし彼らが天的な位置に立たなければ、決して知ることのないような困難さを生み出すのです。クリスチャンは(このような)天にある勢力に日々遭遇しているのです。困難、摩擦、クリスチャンを分離させようとするが、(クリスチャン以外の)他の人は分離しようとはしない十字架の流れが存在するのです。それは主の民の間の真の霊的な一体性と完全に固く結びつけられているからです。その一致は主に対する一致ですが、サタンには対抗するものだからです。サタンはできるだけその霊的一致を壊そうとするのです。サタンは霊的一致が彼にとってどんな意味を持っているのか知っていますし、主もそれがご自身にとってどんなことを意味するかご存知です。それゆえにクリスチャンが一緒に生活する場合、 とりわけ長く生活する場合、特別に余分に困難が生ずるのです。

結論としてどういうことが言えるでしょうか。こういう困難さが生ずるとき、私たちは次のように言うべきです。「霊的一致は、私にとって新しい霊的位置を獲得し、またこの頂きに達するために明らかに必要なことです。もし私がそれをあきらめずそこから離れたくないのなら、私はある霊的な拡大に向かって進まねばなりませ ん。私は主を新しい方法で知り、もっと恵みや愛や忍耐を持たねばなりません」それが霊的拡大であり、それは関係を持つことによって生ずるのです。(もちろん、それがただ一つの道です。霊的拡大が関係を保つことによって生ずるものは他にもたくさんあります。)もし私たちが祈りにおいて一緒いることを保ちさえするなら、霊的拡大があるのです。

(今日の箇所は A Way of Growth - Chapter 2  の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003390.htmlで す。「成長の道」と題するこの文章は全部で4章からなり、今日の箇所はその2章のさわりの部分にすぎないが、メッセージはコリント、ガラテヤ、エペソの各手紙の違いに言及し、「教会」が協同的な信者の群れによってはじめてなることを主張しています。ちょうど今日吉祥寺の火曜学び会でベックさんが学ばれた内 容とオーバーラップする内容であります。そのメッセージの中で『私は日本に来る前、ロンドンから香港まで集会を訪ねたが、「主はそこにいます」と言わざるを得なかった』と短く言われました。55年前(1956年)の那珂湊でのメッセージを掘り出してきてなされたメッセージということであったが、このスパークス氏のメッセージは1948年当時のものであり、同じルーツのものであると言わざるを得ません。興味ある方はhttp://hiroba119.web.fc2.com/roba/の火曜学び会の9/27の録音をアップして聞いてみてください。それにしてもspiritual enlargementは「霊的拡大」と訳してしまいましたが、もっと適切な訳があるように思えてなりません。どなたかご教示をお願いします。)

2011年9月26日月曜日

信仰への鍵

京都・白川の川縁
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(新約聖書 マタイ6:33)

(読む箇所 ヘブル4:1~13; 11:5~6
 私はこの世においてもっともむつかしいことについてしばらくお話ししたいです。それは信仰です。主の民に関する限り、その生活の全般があらゆる点において、つまりその最初の段階である救い、そしてそれに従属する歩み、霊的成長、霊の養育、勝利、 働き、奉仕、それに主との交わりと究極的な栄光はすべてひとつのことによって解決されるのです。その一つのこととは信仰です。信仰が主との交わりのうちに あるすべてのことにとっての鍵です。鍵はあくまで信仰の問題です。信心と言うことでなく、神様を信ずるということです。
 それは直面されなければならないことであり、いかなる観点においても可能な限り解決されねばなりません。しかし信仰は今回限りで解決されることではありませ ん。この点について何度も何度も解決がなされねばならないのです。私たちは本当に絶えずこの問題に直面させられるのです。新しい事態や試みや混乱、それに矛盾に見えるようなことを前にして、私は神様を信じているのか信じていないのかとか、神様に信仰をもって安んじているのかいないのかとか、主を信頼しているのか信頼していないのかという問題です。それはずっとその通りですし、つねにそうなることでしょう。そしてこのような試みは非常に鋭く厳しいものです。
 ある兄弟が今週私に書いて寄越しました。この人はここではもちろんのこと他の地でも主に大層用いられており、主を知り、まさしく主とともに歩んでいる人ですが手紙の中でこんなふうに書いたのです。「時々主はもう千マイルも離れているように見え、私のことなど関心を持っておられないように見えるのです。時には主は私を捨てられたようにも見えるのです」あなたはこれは極端だと思うかも知れませんが、そう思わない人もいるでしょう。あなたもご存知の通り、そのような経験は神様の子どもの生活にとって本当なのです。私はこういうことは直面させられねばならないことだと言ってきました。それが私たちが召されている生活なのです。主はそのことを覆われたことも、ベールをかけられたことも隠されたこともありません。私たちは信仰生活に召されています。そして私たちはそのことに直面した方が良いのです。その時私たちはもし乗り切りたいのなら可能な限り解決するに違いないのです。というのは繰り返しになりますが、神の子どもの生涯の最初から終わりに至るまで信仰に関係しないことはどの歩みにおいてもどの段階においてもまたどんな状況においてもないということです。
 いいでしょうか。それが事実なのです。私たちはそのことについて全く正直でありましょう。またお互いに率直でありましょう。それが状況です。もし私たちがこのことにまっすぐ直面し、棚上げしたり、それをはぐらかそうとしないで、それを受け入れられたら、かなりの程度までそれが手助けになることでしょう。

                信仰への鍵

 しかし、私たちは信仰の内側に入って行きたいと思います。ご存知のようにヘブル人への手紙は初めから終わりまでが信仰に関する手紙であり、他のものの間に信仰にとって一つの非常に助けになるヒント、鍵があるのです。それはこの4章にあります。その箇所は信仰のことではないと思われるかも知れません。というのも信仰を面と向かって問題にしていないように見えるからです。しかし詳細に調べられれば、信仰がそこで触れられていることだと気づかれるでしょう。それはこの不思議な少々技巧的な言葉によってです。「というのは、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからです」お分かりのようにそのことばは「というのは」という言葉で始まっていま す。(訳者註:日本語の聖書には「というのは」はありません)
 その「というのは」は荒野でイスラエルが安息にはいるのに失敗したこととつながっているのです。イスラエルは語られた福音を持っていましたが、語られたことばは益とならず、信仰に合わせられず、結びつけられもしなかったと言われています。それから「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」 (訳注:ヘブル4:3)ということばが続きます。彼らは不信仰のゆえにはいることができなかったのです。それから安息と彼らがはいれなかった失敗がもっと続き、そしてそれから「というのは神のことばがたましいと霊を分離する」と続くのです。これが信仰にとっての鍵、あるいは一つの鍵のことばであります。それは何でしょうか。それは「たましい」の征服であります。そして、それが荒野の失敗とそれに続いて安息にはいれなかったすべてを説明されるために言われているのです。
 たましいとはどんなものかご存知でしょう。私にとっては、たましいと霊は実に一緒に暮らしたくないものです。たましいは自意識のいのちであります。たましいによって私たちは自分や他の人やこの世の事柄全てを意識します。霊によって私たちは御霊である神様とその全領域を意識します。自意識のいのちと神意識のいのちこれら二つのものが明確にされず相違が認識されず、重なることがゆるされ混乱状態をもたらしたために彼らははいれなかったのです。彼らは不信仰のゆえに失敗したのです。それは何を意味しているのでしょうか。自意識のいのちが優位になり、神意識のいのちが優位にならず支配され従属させられたのです。
 別の言葉で言えば彼らにとってすべてのことは自我が状況や見通しに影響されたのです。彼らは何度も何度も熱狂に満たされ、主のことにおいて本当の関心のように見えたことに満たされました。そうなのです、彼らは前進し、明らかに主に対して本当の献身の思いで一杯でした。ところがそれは状況が彼らを喜ばせた時であり、見通しが彼らにとって大きな可能性や彼らの大満足をもたらすようにあらわれた時です。ああ、これはすばらしい、良いことです。さあ、このすばらしい土地、私たちが進んでいる土地についてもっと話しましょう。私たちの誉れある驚きや富について語り続けましょう。このことに私たちは関心があります。そのためにはいっているのです、と。
 しかし、それはすべてたましいでした。 自意識、利己心、自己満足でした。そしてある状況が、現在もその見通しにおいても起こり、それによると自己を否定し犠牲にし、利己心を捨て、彼らにとって非常に犠牲のいる非常に困難な状況に直面しなければならなくなった時、彼らは全く関心をなくし、熱意は失せ、不信仰が持ち上がってきたのです。不信仰がそこにあり勢力を得たのです。彼らは今やこのことに全く関心がなくなり、それは今や彼らのためでなくなったのです。それは何のためだったのでしょうか。それは何よりも主だけのためであったのです。そして彼らの関心は完全に消え失せました。主が主のものを得たならその時に、彼らは初めて相続財産を受け継ぐことになったことでしょう。主はまず「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言われます。)

最初に言われていることはしばしば具体的な個々のすべてのものを手放すことを意味したのです。

(そのことが信仰の核心にすぐに達することでないでしょうか。)

私たちにとっての失望とは何ですか。私たちが考えている失望は主に対する失望であるとつねに言うことができますか。そして私たちは主が私たちの利害と全く関係のないものを願っておられるものを主に求めようとしたからであるということができますか。 (and over His things is because we did so much want the Lord to have what He wanted irrespective of our interests at all;)私たちはすべてのものを手放す用意がありましたでしょうか。私たちはとにかくこのことに悩まされなかったでしょうか。主にあって主が求めておられることを達成するにあたって私たちは自分自身が何らかの方法で試されていることを体験するのです。それらは大変混ざり合っているので、それが、これらの二つ(訳注:たましいと霊であろう)の間に入り、識別するきわめて鋭い道具とならねばなりません。主が関心となる道においては私たち自身が完全に遮断される時、信仰がゆるぎ、弱くなり、しばしばなくなるということは本当なのではないでしょうか。

それでは信仰にとっての鍵とは何ですか。信仰にとっての鍵はこのたましいと霊を分離することであり、また別の言葉で言えば、利己心を完全に自制することです。それは殲滅という仏教徒の言う意味ではなく、神様の関心が積極的になり支配するようになるという意味においてであります。それは信仰の戦いが激しくなるところです。信仰はつねにその領域で激しくなるのです。もし私たちが完全にそうだったら(そして私たちのうち誰一人として本当はそうではないのですが)、もし私たちが完全に主の関心にだけ夢中になり、その結果私たちの生活の他のどんな関心も私たちを支配する優越権も力も持たないのであったら、私たちは四六時中勝利のうちにいることになるでしょう。

主が求めておられることに対するこの完全に公平無私な関心が信仰の鍵です。もし荒野にあってイスラエルがこの態度を取ったのであったらと思います。たしかにこれは非常に困難な体験ですが、主が事の背後におられ、主が望まれ、明らかにそれがそこに達する最善の道であることを知っておられるのです。確かに私は主とともにおり、すべてのものを失い、すべてのものの損失に悩むのかも知れませんが、主が望んでおられることが重要なのであります。主が私たちがその地にいることを望んでおられ、もし主の喜びのためにそこにいることが万事を意味づけられておりそのことが重要であるなら、もしそれが彼らの態度であったら彼らは荒野にあって40年間ぐるぐると旅をしたと思いますか。土地の境界線で彼らが向きを変え荒野で滅びることになったと思いますか。土地に入って行った次の世代が信仰というこの一事だけで入ったという成就を見ることができるのです。すべての物語は信仰に基づいているのです。

(今日の箇所は The Most Difficult Thing in the World の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003389.htmlです。今日の箇所は英文を載せたところの前後の文章を訳するのが難しく、大幅に最初からの訳文を載せました。この文章は全部でおよそ6頁のものですが、ほぼ半分を訳出したことになります。英文の部分をふくめて識者の助言を得たいところです。なおその他随分誤訳があると思います。多くの方のご叱正ご指導をお願いします。)

2011年9月25日日曜日

天が開けて

悲しいかな、余りにも地上的な人の存在。天を仰げ!(京都祇園にて)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(新約聖書 ヨハネ1:51)

(これらの章(訳注:ヨハネ8:12~9:41を指す)が8章と9章とに二分されているのは残念です。なぜなら9章でイエス様はイエス様が8章で言って来られ たことの真理を、きわめて実際的な方法でお示しになっているからです。このできごとが地上的なイスラエルの背景のうちにおかれていることは極めて明白であります。そしてこの長い記録の部分は肉にあるイスラエル人が盲目であることを示すために意図されているのです。もし人々がイスラエル人がいかに盲目であるかを示そうものなら、これらの人々と口論になることでしょう。イエス様がイスラエル人自身の正体を明らかになさっておられるのです。それがイエス様が彼ら自身が盲目であることを示そうとやむにやまれずなさっている当のことがらです。
 事実はこれらの人々は全く見えていなかったということです。彼ら(訳注:8章 の)は、その男(訳注:9章の)が生まれながらの盲人であったのと同様に霊的に盲目であったのです。それがために私たちがここで知ることはイスラエル人の盲目が話題とされているということです。そしてそれはすべて主イエス様が持ち込まれた新しい霊的イスラエルの特別な性格を示す目的があるのです。
 しばらくその話題から離れますが、みなさんはそのことは覚えておいてください。なぜなら私たちが今問題にしているあらゆるこれらのことを包含する一つの大きな真理があるからです。それは)

 神様がかつて表明されたいかなる考えも滅びることはないということです。神様があらわされたどんなお考えにも間違いはないのです。神様は古のイスラエル民族の概念や構成においてまさしくご自身の考えを表現されたのです。そのお考えはイスラエルについて言われたことの全てのうちに、またイスラエルにおいて神様のご計画に関してあらわにされたことの全てのうちにありました。神様はイスラエルに関するご自身の考えをありとあらゆる方法で表現されました。そのイスラエルが神様のお考えに答えることに失敗したのです。イスラエルに関するお考えは彼らの反抗心のゆえに決して十分には認識されなかったのです。そのためイスラエルは(神様から)やり過ごされましたが、神様のお考えは捨てられなかったのです。これらのすべての同じ考えは今や新しいイスラエルのうちに受け入れられているのです。

イエス様ご自身がすべてをふくむ新しいイスラエルとなられているのです。皆さんは覚えていらっしゃるでしょう。イエス様が名前がイスラエルと変えられたヤコブに言及され、ナタナエルに向かって言われたのです。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」そのようにイエス様は人として新しいイスラエルなのです。神様と天が人と交わりをもつすべてはイエス様の道、新しいイスラエルによるのです。過去の時代の神様のお考えは最初の段階で主イエス様に受け入れられているのです。かつて神様によってイスラエルに関して意図されましたが、イスラエルによってなくされたすべてのことは主イエス様のうちに移され、それからイエス様によって、イエス様の友や天からの召しを受けている霊的な新しいイスラエルに移されるのです。

これがあなたがたのために非常に大きな領域を開いていることがらです。

(神様のイスラエルに関するみこころのすべての特徴を数え上げることは恐らく不可能でしょうが、私たちが言わんとすることをちょっとお示ししましょう。ご存知のように神様はイスラエル人を外見において他の全ての人々とはっきり異なるものとして区別されたのです。

※イエス様の友とはイエス様が見るように見る人のことを指します。あらゆる交わりの中でそれはどれほど真実であることでしょうか。もし二人の人が似ているように見えないなら彼らの間の交わりは本当は全然存在しな いのであります。あなたは一緒にいたいかもしれません。けれども人があなたが見るものを見ない時、一緒にいることはどれほど困難なことでしょう。You can go so far and no further. 聖書は言うのです。「ふたりの者は、仲がよくないのにいっしょに歩くだろうか」(アモス3:3)本当の交わりは相互理解の上に安らぐのです。そして私が思いますのに、イエス様がご自分を理解する人を持つこと以上に切に懇願しておられることは何もないのです。これが神様がいつも求めておられたことです。そしてこの考えが御子に受け入れられ、御子の友達に伝えられるものです。ヨハネは言います。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち」(1ヨハネ1:7)主との交わり、相互の交わり、それはもし私たちが光の中を歩んでいるなら(可能なのです)。言わせてもらえば、 みなさんは、何はともあれ、ことばにおいてたくさんの光を受けてきたのです。私の言うことができることはこれだけです。光の中を歩みなさい。そうすれば自由になります。)

(今日の箇所は The On-High Calling, Volume 2 - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003388.htmlです。今日の箇所は全文引用してこそはじめて理解できるところですが、長くなるので全文を引用する代わりに文頭と文末を追加採用しました。※のところは文末の文章です。きわめて含蓄のある文章だと思います。)


2011年9月24日土曜日

ステパノは見た

今週月曜日、台風近づく中で旅先の降り立った駅頭で見たダリヤです。
見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。(新約聖書 使徒7:56)

ステパノの果たした役割のうちで、一つの、恐らく卓越した要因は彼がその生を閉じるに当たって見、ほとんど最後の息を引き取るときに言ったことでしょう。 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(7:56)ここに私たちは真の新約聖書のキリスト教、キリストのからだとしての教会と数々の教会の中心になり、基盤になる真実性、すなわち神の右に立っておられるイエスを所持するのであります。支配と権威と司宰は上られた主に付与されており、が中心であります。それはエルサレムでも地の他のどんなところでもありません。

(それから、これは、イエス様ご自身がその称号をお使いになってから後に、主が人の子として語られる唯一の機会であります。これはユダヤ人の称号ではありません。万人の称号であります。ダニエル書で私たちは人の子が神様から受け入れられた者として「主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった」(ダニエル7:14)ことを知っています。それがステパノの見た幻であり、言わんとしたことの意味であります。)

ユダヤ教の統治者やステパノの告発者たちは事の重大性を知ることにおいて十分敏速であり抜け目がありませんでした。というのは彼らは「宮が支配権を持つ」ことが終わらされた、律法制度がおしまいにされたという趣旨以外やそれ以下のものを見なかったからであります。イエスのからだである教会は宮と宮と組になっ ていたすべてのものから離れ、もっと偉大で完全で永久的な真実なものに移行したという暗黙の呼びかけを身に覚えたからであります。

(このことはただちに関連させられる二つの他の事柄にとってどんなに驚くべきまた印象的な意義を与えることでしょうか。私たちはこれらを見るにつれ、「何と驚くべきことよ」と叫ばざるを得ないのです。
 第一はパウロがこの点についてまさしく関係しているということです。ステパノはこの偉大な天からする啓示のための神様の器だったのでしょうか。彼は天の働きの先鋒であったのでしょうか。彼は、教会の歴史における重要で危険である時に、その構成と使命の本当の永遠に続く性質を主張する天の声であったのでしょう か。ステパノの告発者たちは天的な基盤の上に立つ教会の大変な重要性を知っている悪魔の権力の邪悪な知性によって動かされ、彼を処刑したのでしょうか。
 しかしまさしくその時、天が答え、地獄の悪意に満ちた破壊的な突進の時に、生涯ステパノの短い宣教のうちに内在しているこの真実なものがみなぎる啓示を伝えるその人(訳注:パウロ)の霊の眼ををただちに見えるようにするのです。何たるお答えでしょうか。人の子が王座に着いておられるとは何たる実例でしょうか。同じ破壊力はパウロを生涯追跡することでしょう。しかしその神の絶対的支配権は完全に与えられる啓示としてあらわれ、その破壊力は停止され、その働きが遂行されるのを見ることでしょう。
 第二の印象的な事柄はこの基本的な発展を短縮し終わらせようと する悪魔の働きそのものがそれを実現するまさしく手段とされたということであります。世界的教会、世界大の代理権がその時からそしてその出来事から立ち上がりました。ペテロとヤコブはエルサレムに残っていたかも知れません。 数人のがんこな律法学者は少なくとも後者を取り囲んだかも知れません。しかし神様はことをどんどん進められます。彼らは落ち込んだり限界内に置き去りにされねばならないでしょう。
 さて、このすべてのことは恐ろしく徹底的な含蓄をもって今日のキリスト教に対して言わねばならないことであります。ステパノの立場とその時代に関する彼の判断の双方がヘブル人への手紙がきわめて似通っているゆえに、何人かの人は手紙がステパノの作品であるとしてきました。ここではそのことを作者のことにしろ文献批評にしろ追求する価値はありませんが、双方における立場が同一であることは見まがうことはできません。事実ヘブル人への手紙はまさしくステパノによる(あるいはこのことに対するパウロによる)神の体制の危機および変化を完全に表明しているものだと見なしうることができるかもしれないからです。)

悲劇は彼らの手にするヘブル人への手紙をもって、教会の責任ある指導者たちが依然として語法を変えて旧約聖書の延長や持ち越し以外のものでない体系や形式に執着することができるということです。その変化や落差の大きさは 確かに理解されてこなかったのです。全聖書のうちでもっともおそろしいことがらのいくつかはその手紙の中で危機と二つの道と領域との関連で書かれていま す。争点は生きるか死ぬかのそれに劣らないものです。このすべてのことがからだとしての教会と地上の教会との真の性質に関連して言うべきことをたくさん 持っているのです。見る目を持つ者は見なさい!(He that hath eyes to see, let him see!)

(今日の箇所は According to Christ - 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003387.htmlです。今日の箇所はたくさん翻訳のミスがあると思います。ご指摘くだされば幸いです。)

2011年9月23日金曜日

小羊が都のあかりです

中央線、電車の窓越しにカンナの花が鮮やかに目に飛び込んできました。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(新約聖書 黙示21:23)

あかりは精神的なことではありません。すなわちあかりは単に精神的な知識を貯えることではありません。そのようなものはあかりではありません。たくさんの教義や真理を身につけることは可能ですが、決して光り輝かないのです。それは暗やみに対して影響をあらわすことは決してないのです。本当のあかりは経験に基づくものです。つまり、経験のもたらす実であり、その経験とは苦しみをとおしてのものです。

どのようにして神様のこどもであるあなたがたは、主についてよく知っていることを知るようになったのでしょうか。つまりその種のほんとうに主を知る知識とは、私たちにとって大変大切なものであり、重要であり、他の人にとってあなたがたがその価値の基準となるものであります。それは苦しみを通すのです。主があなたがたを導かれたのは困難な道を通してであり、主があなたがたのうちに働かれた十字架の働きを通してであります。
 
「小羊があかりです」苦しみが知識を導き、光を与え、理解をもたらすのです。それがただ一つの道であります。終わりにいるこれらの人々は偉大で素晴らしい啓示という良い状態にいることになるでしょう。その啓示はすでにキリストの苦しみのうちにキリストと交わることによってもたらされているのです。それは大変真実なことであります。ある観点からは余りにも不愉快なことかも知れません。しかしそれは真実であります。それは私たちが次のことを悟るように手助けするはずであります。主は私たちを扱う仕方において、主が私たちが遭遇するようにされた苦しみのなかで私たちの教育を本当にしようとなさっているのです。私たちはその道に唯一近づくことのでき、そして私たちにとって、また私たちを通して他の人にとって大きな価値を持つ特別な種類の知識である主ご自身について知ることができるのです。私たちはその他のいかなる道によっても学べないのです。それが小羊であり、つねに小羊の原則であります。
 
私たちが主を知るようになるのは苦しみと犠牲と己を空しくする道によるのです。「というのは小羊があかりであるからです」そして、小羊はちょうど更なるいのちに至るより深い死であるのと同じように、しばしばそれは更なる光に至るより深い暗やみであるのです。主は私たちが自然には主を次第次第に理解できなくなる道へと私たちを導かれるようであります。主は完全に私たちを生まれながらの資質から追い出されるのです。それは、主の方法を理解しようとする能力を超えていることだからです。私たちは主がなしておられることや、なぜ主が今なそうとなさっておられるのか全くわからないのです。しかし私たちが内面的に主を知る本当の知識に至る道があります。それは誰かにことばで説明できることではないかもしれませんが、是非どうにかして知ることができるのです。それは大きなこと、巨大な知識の力です。それこそ十字架をとおしてのあかりであるのです。

(今日の箇所は Followers of the Lamb - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003386.htmlです。)

2011年9月21日水曜日

天的な祈りの生活

中央線、車窓から天を仰ぐ
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(新約聖書 コロサイ3:1)

私たちの祈りの生活は天的な基礎の上に位置していなければなりません。祈りの生活が地上の事柄のための祈りであるだけでは十分ではありません。朝起きて、数語口走り急いで主に祝福を求め、また私たちのものとその日の地上的な事柄がまるで生活のすべてであるかのように求めることは大変やさしいことです。でも祈りとはそうではないのです。もし主であったら、天的なこと、霊的なこと、一時的でなく永遠のこと、この世でなく、永遠に天的な目的につながる祈りをされたことでしょう。主なら、私たちを単なる一時的なことから切り離されることでしょう。主の前に人々を連れてくる場所があります。人々は天的なつながりのうちにあげられねばならず、自分自身で物事が処理されてはならないのです。主の血潮が万事を天的にし、古い創造から切り離すのです。私たちの祈りにはたくさんの古いものがあります。祈りは私たちの都合を求めるものであったり、不都合や不愉快から解放されることや、たくさんの悩みや悲しみから私たちを解放するものを求めるものです。それが私たちの多くの祈りの背後の動機であります。「主よ、今日どんな悪いことも起こりませんように、もしそうなら、私の人生はだめになってしまいますから」

けれども、主が悲しみをとおして全く新しい何ものかへと私たちを引き上げると仮定しますと、私たちはそのときその祈りをする用意がありますか。いいえ、しないはずです。私たちの祈りは「主よ、今日私は霊的な価値と関係する最大のものを求めます。もしそれが試みと困難な道によることであるなら、私はそこから解放されるように祈りません」私は申します。「主よ、私には耐え 抜く力があります。祈りによって私は日毎のその試練が意味する試みをくぐりぬけるその力を経験するようになるからです。」それが天的な祈りです。それが あなたの天にある心からする祈りなのです。「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:1~3)「私たちの国籍は天にあります。」(訳注:ピリピ3:20)したがって、今や信ずる者のいのちはつねに天国が与える特権と一つになっており、それゆえ私たちの祈りの生活とはこのような特権とつながっているのです。

(今日の箇所は The Altar of Incense の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003384.htmlです。)

2011年9月15日木曜日

愛の点火

夏の思い出
愛には偽りがあってはなりません。・・・兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(新約聖書 ローマ12:9,10)

「イエスは、極みまで弟子たちを愛された」そして私はその言明のうちに、かつてこの世界に生じたもっとも驚くべき出来事があると思うのです。イエス様は弟子たちに大層てこずっておられました。弟子たちはしばしばイエス様を誤解したのです。またしばしば彼らはイエス様に失望したのです。彼らは本当にきわめて貧しい人々でした。

イエス様は彼らがどんな貧しい者であるかを知っておられましたが、その極みまで愛されたのです。それがこの愛(訳注:イエス様の愛)に関する第一番目のことです。この愛は私たちの失敗で感情を損ねることがないのです。イエス様は私たちが過ちを犯すからと言って引っ込まれることはないのです。私たちはしばしばイエス様に失望するかも知れません。またしばしばイエス様を裏切り、そのお心を悲しませるかも知れません。けれどもイエス様は私たちを愛し続けてくださるのです。イエス様は私たちを極みまで愛してくださいます。 まさしく終わりまでです。私たちの失敗に感情を損ねることはなさらないのです。それは私たちの愛とは全く異なった愛であります。これがキリストにある神様の愛です。

ご存知の通り、愛について話したり、愛するふりをしたり、愛という言葉を用いたり、愛についての賛美歌を歌うことは大変簡単なことです。しかし全部感傷的なものとなり得るのです。恐らく私たちすべてが私たちにあなたを愛していますと話してくれたが、きわめてしばしばその人たちが私たちをもっとも傷つけたことがある人だったということを知っているでしょう。ところがイエス様の愛は感傷的ではありませんでした。実際的でした。イエス様は弟子たちに協力して「兄弟たち、私はあなたがたを大変愛しています」とは言わなかったのです。彼は弟子たちにご自身が弟子たちになさったことによって愛されていることをお示しになりました。その愛は感傷的なものでなく、実際的でありました。そしてこれこそ主が極みまで弟子たちを愛された愛そのものなのであります。

ご自身のものに対するキリストの愛を特徴づけるこういうことが、私たちの他の人に対する愛のうちに形造られねばなりません。それがなぜ聖霊なる神様が来られたかの理由です。キリストが私たちを極みまで愛してくださったように、私たちもお互いに愛さねばなりません。

(おゆるしください。私は持ち時間を4分オーバーしてしまいました。でも、もし私たちがキリストの愛のこの偉大な教訓を学びさえするなら、一晩中ここにとどまっていてもその価値はあるのではないでしょうか。)

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003366.htmlです。今日のところは1964年になされたメッセージの聞き書きです。全文は読みやすい英文です。全部で7点の特徴をヨハネ13章から述べています。数少ないスパークス氏の息吹を感ぜられるメッセージです。またその中にウオッチマン・ニーの言った鋭い言葉が紹介されているのも興味あるところです。)

2011年9月14日水曜日

あなたは「奴隷」として歩めますか

ほぼ一月前の親戚の百日紅、その後一週間して伯母さまが亡くなった。
この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残ることなく示された。(新約聖書 ヨハネ13:1)
 (恐らく、もし私たちが当時の普通の奴隷の顔を見たなら、そこには全く生き甲斐をなくし、絶望しきった喜びのない顔つきに遭遇したことでしょう。しかしそのことはご自分を奴隷のかしらとしてあらわされたお方、主イエス様には妥当しなかったのであります。それはこういうことです。この主のお立場は主がご自身の関心や感情を忖度されなかったのでご自身がみじめであるということは重要でなかったのです。そしていのちは主にとってきわめて問題にはならなかったのです。 この奴隷の霊が、喜び、晴れやかさ、心からなる放棄であったのです。主はつねに積極的な側面から、消極的な観点でなく、つまり他の人々を勝ち取るこ ととキリストがしもべであるお方(父なる神様)を満足させる側面から見ておられたので、ご自分とご自分を喜ばせるすべてのものを切り離されることは全く辛くなかったのです
 それが奉仕の支配的な原動力をもたらすのです。イエス・キリストのしもべ(奴隷)の支配的な原動力とは何でしょうか。それは強制ではありません。選択権なるものでもありません。それはただ愛なのです。)


もし深くて強い永続的な愛がないなら、イエス・キリストのしもべの宣教は勝利ある宣教とはなり得ません。

(愛はこの種の奉仕の原動力です。そのような宣教の奉仕と任命されてなされる職務的なもの、すなわち私たちが組織化された働きや奉仕をするのとでは全くの違いがあるのです。もし私たちが主に対してだけでなく、 奉仕するために召されているすべての人々に対してもふさわしい愛がないなら、遅かれ早かれ私たちは駄目になり、これ以上前には進むことができないという行き詰まり、つまりすべての状況において恐ろしく混乱する状態に陥っていることを覚えることでしょう。)

愛は私たちの問題を解決し勝利に導くものです。けれども十分な愛から離れるなら、人間のでっちあげる問題、性癖や人格の多くの違い、そして仲間をまとめるために動くすべてのことや、また敵からやってくる圧倒的な圧迫感をともない絶え間なく続く緊張感が問題を引き起こし、複雑で麻痺させる仕事となることでしょ う。愛だけが私たちを切り抜けさせるでしょう。愛はしもべの原動力です。

私たちは主が弟子たちとの関係を維持するためにどんなふうに統率されたかと問うかも知れません。弟子たちは大変難しい人たちであり、大変異なっており、大変イエス様に失望してもいました。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残ることなく示された。」それが答えであります。愛はとりわけ弟子たちのあるがままのすべてを受けとめたのです。つまり愛はイエス様が弟子たちをそのままでは連れて行くことができなかったものを与えました。and end there. 私たちの関係においてはそのように、本当のしもべの霊が深い愛として存在し得るだけなのです。

主に仕え、主のために働く考えを持つすべての人に対して私はこの考察をお勧めしたいのです。すなわち主の働きはみなさんが表面的にかつ客観的に取り上げるようなものではないということです。それが (もしそれが真実なものであるなら)主に対する、そして主の愛の対象である人々に対する愛の完遂であります。それはきわめて単純でありますが、それが物事の核心に達することなのです。遅かれ早かれ、みなさんと私は、私たちがはたして前進するのに十分な愛を持っているか、この特別に難しい状況を切り抜けるために心のうちに十分な愛を見出し得るのかという問いが生ずる立場に移されることになるでしょう。

状況は私たちをしもべや奴隷に分解するすべてのこれらの要因によって成り立たせられるでしょう。もし私たちが尊敬され賞賛され高く評価されたに過ぎないのだったら、それはそれほど重大なこととはならなかったことでしょう。けれども状況が、私たちに期待されるたくさんのものによって、また私たちの寛容さ、親切心の上になされる要求によって、ほとんど無尽蔵である忍耐のたくわえが求められることによって、個人的な感情を捨てることによって起こされるとき、つまり本当に危機における主要な論点がこのようなものであるとき、私は重荷を負わせられる存在であります。余りにも過大なことが私に期待されるからです。つまり私はしもべとして扱われているのです。そこで私たちは自分を発見させられるのです。愛だけがこの奉仕を支えることができるのです。

(私たち全員がしもべとしての状態を成し遂げるにはもっと多くの愛を必要としているので す。)

(今日の箇所は "Behold My Servant" - Chapter 8 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003365.htmlです。)

2011年9月13日火曜日

御霊の一致

「ブルースター」の種、造化の妙。拡大してご覧ください!
 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(新約聖書 エペソ4:3)

(          ひとつになってともに住むこと
 さて私たちは祝福の第二の点にやってきました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133:1)
私たちは祝福をその例示、前兆のうちに、すなわちあらゆる心を結びつけ、すべてを一つにし、すべてのものの個性や、すべてのものの分離から引き出すシオンをこれまで見て参りました。さて、心が主イエス様に集められる時、私たちは分離や私たちを別れさすあらゆるものに抗する最大の力と動力を身につけるのです。 そして主イエス様が私たちの中心であり、卓越したお方であり、私たちの心が出て行くのは主イエス様に向かう時であるなら、私たちはひとつになるのです。あなたは個人的な関心と同時に主の関心を求める心配りを持つことはできません。ダビデはそのことを完全に明確にしています。「わが家の天幕」(訳注:詩篇132:3)それはひとつのことなのです。そしてもし私がそのことをよく知っているなら主のために家を建てないでしょう。もし家を建てるなら、主の安息のための場所を見出さないでしょう。もし私が私の願いに満足することを求め、私の目を眠らせ、私のまぶたをまどろませるなら、主の関心は二義的になるでしょう。しかし私が自分のことは、個人的であるすべての事柄と一緒に脇に置き、主に集中し、他のすべての人もまたそうする時、私たちはキリストにある完全で中心である結節点を見出すのです。それが一つになって住むということであります。
 さてエペソ4章は詩篇133篇の偉大な新約聖書の解き明かしであります。「ひとつのからだがあります・・・」イタリック体なしにこのひとくだりを読んでください。「平 和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つ・・・召しのもたらした望みが一つ・・・主は一つ、信仰は一つ、バプテスマ は一つです。 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」(3節〜6節)

適切に組み立てられた一つのからだとしてキリストにある一体性が描かれているということです。どのようにしてこの完全な一体性は到達されるのでしょうか。独立した個々人であるすべてがなくされることにより、また主が焦点の中心であることにより、そしてそのように一体性を維持する熱心さが与えられることによってであります。あらゆる個性的なものは閉め出され、つねにキリストとキリストの関心が視野に保たれるのであります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(13節)そのように一つになってともに住むことは、キリストが私たち全員の関心事の唯一で中心的な存在であることの結果であります。このことは幻として、想像上の単なる理想ではなく、極めて実際的なことであります。

あなたがたと私は、分裂が働く要素があり、私たちを引き離すように私たちの間に忍び込んで来るものがあることを知ることでしょう。(悪魔である)敵はつねにそうすることを求めています。主の民の間に入り込み、障害を築こうと暴動を起こすことは数えきれません。時には彼らは抽象的な人格以上のものであります。それはあなたがたがつかまえ、説明し彼らがどんなものであるかを言うことが決してできないものであります。それはまるで何かの感覚のようなものです。時にはそれはもっと積極的であり、何かについて明白で限定した誤解が言われたり、なされたり、つかまえられたりします。そして、もちろんそのことはつねに(悪魔である)その敵によって誇張されるのです。

御霊の一致を保つためにこの種のことはどのように扱われるのでしょうか。正しくこの基盤にだけ立って適切に私たちが次のように言うことです。「このことは主の関心ではありません。これは主にとって価値あることでは決してあり得ません。このことは主の栄光と満足とはなり得ません。このことは主にとって痛み以外の何ものでもありません。」私が問題に感ずるかもしれないことは考慮すべきことではありません。私は間違った当事者でさえあるかもしれません。しかし私は間違っており、傷ついていると感じていたいのでしょうか。私は自らの威厳の上に立とうとしているのでしょうか。私は間違っていたので閉じこもり消え去りたいのでしょうか。それが生まれながらの性質が持つであろうやり方ですが、私は次の態度を取らねばならないのです。

「主は失うために立っておられる。主の御名は苦しめられるままである。主の関心はこの中に巻き添えにされている。私はこの生まれながらの性質を征服しなければならぬ。私はこれに勝たねばならぬ。私はこのことを振り払わねばならず、この兄弟姉妹に向かう自らの態度や、自らの行為、自らの感情に影響を与えることを許してはならない。」主のために私たちが感じることや私たちの権利さえも、そして主の証を傷つけようとするこのような敵の努力を征服するということも脇に置かれねばならないのです。

それが一致を保つ熱意を与えるのです。それが分裂にまさる勝利の力であり、一致の勝利であり、主はそこに祝福を命じておられるのです。それが永遠のいのちへの道です。それ以外の道は明らかに死の道です。そしてそれが敵を尻目にすることであります。その違いが明確にされるまでは、すべては死であり、すべては衰え、枯れ果てるのです。いのちは一致によります。 一致は私たちが個性的などんなものも捨て去るお方として場所をおあずけするキリストのうちにふさわしく見出されるだけなのであります。私たちは他のどんなもののためにもしてはならないのです。見える形で人のためにしてはならないのです。私たちはキリストのためにそうするのです。(その結果)敵は敗北させられるのです。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 8 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003363.htmlです。Sparks氏の短い評伝をまもなく、もう一つの「泉あるところⅡ」に載せさせていただくつもりでおりますが、今日のくだりなどは読む人にとっては七面倒くさいと思われ不必要と思われるかもしれません。しかしそれだけ彼が実際の教会生活の中でいかにみことばに立って戦っていたかがわかるものでありまして、訳出には苦労しましたが、その彼の戦いのほんの一端に触れさせていただいた思いがしており、私にとってはいい学びになりました。訳は相変わらずおかしいところがあります。昨日は 電話で当方の訳の違いを指摘してくださった方が初めてあらわれました。ありがたいことです。)

2011年9月12日月曜日

聖徒の受け継ぐもの

このところこの揚羽が庭を絶えず訪れます。
私は祈っています。・・・あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか・・・知ることができますように。(新約聖書 エペソ1:18)

(もう一つの側面は、この人としての(キリストの)完全さが最初に誕生したものである教会においては、集団的に明らかにされるということです。キリストは神様の初子です。教会も初子そのものであります。キリストと私たちはひとつのからだとして出発させられます。(ただし)あなたと私は決して神性を持つ者として合わせられるようにはなりません。私たちは互いが神性を持つひとつのからだではありません。神性は私たちが彼にあってひとつである(キリストである) 「人」にあるのです。私たちはこうして人であるキリストに合わせられるのです。パウロがエペソの人々へのこの手紙で言うように「二つのものをご自身において新しいひとりの人に」(訳注:エペソ2:15)造り上げるのです。
 私たちは先ほどキリストの人としての完全さは集団的に明らかにされると言いました。そのことが私たちを導いて使徒の祈りにおいてこの二番目の訴えをさせるのです。すなわち「・・・聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」であります。)

聖徒がキリストにあって受け継ぐものとは何でしょうか。また聖徒がキリストから受け継ぐ栄光の豊かさとはどんなことでしょうか。それは聖徒にはキリストご自身があまねく知られるように、神様がキリストにご計画をもっておられるのと同様に備えられているということです。キリストが中心的な満たしとなるのであり、その満たしは決して孤立的な方法であらわされるべきではないということが神様が熟慮されていることであります。もしそうでなかったら、そこにはどんなご計画もなかったことでしょう。なぜなら、キリストは受肉なしに神格をもってそのことをなさることができたのだったら、そんなふうに完全性を持たれたことでしょう。それがピリピ人への手紙が言っていることです。キリストは神様と等しくあられ、すべての完全性を持っておられたのですが、ご自身空しくなられたのです。なぜでしょうか?他の人々が完全にされるために、キリストはご自身を固守なさろうとされなかったのです。固守はサタンが望んでいることであります。

主イエス様は他の人を完全にするために自分を捨てられました。使徒は言います。「キリストの心を心としなさい」(訳注:ピリピ2:5)もし皆さんのうちで誰かが自分の持つ権利や自分の立場を固辞し、自分自身のために一切を支配する傾向があるなら、皆さんは自分自身の権利を他の人々が入って来て利益を得るために放棄させるキリストの霊そのものに反していることになるのです。キリストから受け継ぐべきことはこれなのです。キリストは万物の相続人とされます。しかしキリストは聖徒を持つのと同じだけ万物を持つことができるのです。キリストは聖徒を通して、そして聖徒のうちにこれらの「万物」を得られるのです。それがその取り決め、約束の役割です。キリストがすべてを持つためにおられることは神様の世界の一つの孤立した単位ではなく、人間知の約束によるのであり、集団的な意味があり、個人的な意味だけではありません。神様はキリストが教会を持つまでは、そして教会がキリストを完全に知るようになるまでは、主イエス様があらゆることを受け継ぐことができないようにと、そのことを絶えず意図されたのです。

(教会はキリストの花嫁と呼ばれ、キリストの栄光を前面にあらわす花嫁たるべきです。キリストの栄光は花嫁をとおして知られるようになるのです。あなたはアブ ラハムの召使いを覚えておられるでしょう。彼はイサクの花嫁を連れて来るために出かけ、その花嫁の満足を勝ち取る最後の決め手となったのは彼の主人の豊かさを示し、 彼女にそれらの富を与えることだったのです。これらのものが示された時、彼女は「私は行きます」と答えたのです。彼女は花婿の富が示されたものの虜となったのです。家族の他の人たちはこのイサクがどんな人か、乞食であるか王子であるかどうかをどの程度知っていたでしょうか。イサクを駆け引きにした召使いは花嫁の家族にこれらの富や宝石を見せました。それで家族はイサクがどんな人か知ったのです。
 この召使いは、花嫁がキリストが王子であること、栄光や富や豊かさ、すなわち聖徒が受け継ぐものを示す乗り物となるように、花嫁(である教会)に示すためにキリストを同伴する聖霊の典型であります。あなたがたが黙示録の終わりにやって来ると・・・)

(今日の箇所は The Church of the Firstborn - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003362.htmlです。中々興味ある内容が網羅されていますが、訳するのは困難で誤訳の恐れがあります。読者の方のご指摘をよろしくお願いします。)

2011年9月11日日曜日

キリストの愛

自治会の有志の方々が線路沿いに咲かせている朝顔の花です!
キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。(新約聖書 2コリント5:14)

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています。」(ローマ5:5)聖霊による愛が主に対する生き生きとした仕え方となりました。さて、その働きは単純ではありますが、二方向に働くのです。あらゆる活動、働き、そして主に対する「奉仕」と呼ばれるものは、背後にこの愛がなければ、真に実のある奉仕の力には不足するのです。しかし、もし愛がそこにありさえすれば、私たちは主のしもべとならずにはいられないのです。主に対する個人としての熱情的な愛以外に私たちが主に本当にお仕えするものは何物も存在しません。何ものもその愛の代わはなし得ないのです。しかし、いったんその愛が与えられると、いかなる種類の聖職者が定める儀式を決めようともそのようなものは一切必要としなくなるのです。みなさんが心から主ご自身にふさわしい愛を抱かれるなら、みなさんはそれでまことに十分な主のしもべとなるのです。そのふさわしい愛が存在するなら、自ずとそれはなるのです。主にとっての私たちの価値のすべては主ご自身に対して私たちが心から愛するその愛の量りに応じるものであります。それがすべてであります。それについて理解しがたいことは何もありませんが、そのことは試金石にはなります。

私たちはこの後に出て来るエペソの教会のようにたくさんのことをなすことができるかもしれません。事実、エペソの教会はたくさんのことをなしたのです。ところが主は「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示2:4)とおっしゃったのです。そして結果的にはこうおっしゃったことになるのです。燭台をそのまま置いておくわけにはいきません。燭台はもはや空っぽで、内側に主がおられず、内に光を持たない、形だけの器に過ぎません。だから、もしこの初めの愛が回復しないのなら、それは単なる多くのことをなす道具に過ぎません。けれども私たちの存在を明らかにするのはその初めの愛であり、それしかないのです。その愛以外に私たちを支えるものは何もありません。その愛が長年月をとおして絶え抜く力であり、主に対する心からするその愛なしに持続されねばならないクリスチャン生活を送るということは恐ろしいことです。クリスチャン生活を長年のあらゆる緊張下で本当に可能とさせるのはその愛以外にないのです、と。

私は確信を持つのですが、使徒の場合に、あらゆる苦難と遭遇せねばならないあらゆることにあって、彼自身が耐えたのは主ご自身に対するこの彼自身の心からする燃えるようなその愛があったからだと思うのです。患難をくぐりぬけるにあたって、主に対する強い愛以外の何ものも私たちを耐えさせるものはないことでしょう。
(今日の箇所は The Representation of the Invisible God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003361.htmlです。久しぶりの投稿です。今日の箇所は一部ですが、全文をお読みくださると恵みは大きいです。特にマグダラのマリヤがいかにイエス様を愛したか、またパウロもどうだったかが描かれています。必読文献です。)