あなたは、あなたの生まれ故郷を出て・・・わたしが示す地へ行きなさい。わたしはあなたを祝福しよう。(旧約聖書 創世記12:1~2)
(これらの三つのことば(訳者注:召されること、選ばれること、忠実さ)には意味があります。それらのことばはあるところ(そこは平地であり見習い期間ともいうべきところですが)から別のところへ向かう目盛りを表しているものであるからです。
私たちが「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選」(注1)ばれている一方、神様との栄誉ある親密性や信任を得ている奉仕に関しては、その選びは「召されたことと選ばれたことを確かなものとする」(注2)お方によるのです。
神様が私たちを取り扱ってくださるすべては召しによります。いかなる用い方をされようとも、「神様の召し」は個人的なことであり、内なる人によって感じ取られ、かつ認識されねばなりません。肉なる人はその召しの声を聞きます。そうです。パウロと同行した人々と同様です。栄光ある啓示によって地面に倒されるかも知れません。彼らの感覚は召しに伴う外側のしるしのいくらかのものを目撃するかも知れません。しかしパウロが言っているように「彼らには私に語っている方の声は聞き分けられませんでした」(注3))
神様の召しは恵みと真理の双方をふくむものです。真理は分離の働きをします。「出て行きなさい」であります。恵みは約束です。「わたしは祝福しよう、祝福となる」がそれです。人はしばしば神様の「わたしは祝福しよう」という恵みをつかもうとします。それから「出て行きなさい」という主の要求に応じることに失敗するのです。
さて、このことは私たちの救いに関しての第一歩にあてはまるだけでなく、クリスチャン生活の様々な時に新しい啓示と召しをいただくたびに生ずるものです。神様が幾分でも私たちが真理と宣教をより完全で高度な形で受け入れるように召されているのは、証することや主に自分を明け渡すことに関してなのですが、神様が訪れてくださるあれやこれやの形によることは疑う余地がないでしょう。それは主が恵みのうちに導きたいと思っておられることなのです。
このことは時期が定められており、明確で、かつ挑戦的であるのです。使者はどこかわからないところから出た者としてやって来ます。評判や認められることや世間的な名声や名誉はどこにもありません。彼は聞く人々と本質的に緊密な関係を残すに十分なだけ滞在してはじめて、使信を伝えるのです。その結果、伝えてしまったので、聞いた人々にとってはもはや以前とは同じではあり得ないのです。
神様の召しが鳴り響きました。大転換が引き起こされました。結果はぎりぎりまで見分けられるか見分けられないかといういのちと神様が与えてくださるいのちとの間にあることなのです。しかし、通常の場合として、この真理は「出て行くこと」を求めて呼びかけているのです。「出て行く」とは、ある程度の俗受けすることや、比較的のんびりした生活から出ることです。
評判を失う危険性や、名声をなくし、人々の間で人気を失い、「異常」「特別」「極端」「危険」だとレッテルをはられるかもしれません。そのことはあらゆる偏見や伝統との真っ正面からの衝突であり、宗教世界の不人気を意味しております。排除や追放や疑惑に巻き込まれるかも知れません。これらのことは神様のあらゆる召しにともなうことであり、受け入れられる水準を越えて神様とともに前進することであります。これがたましいを追い求める開拓者の支払わねばならない代価であり、神様と人々にとって、もっと役に立つための代価なのであります。
(この代価をこれからも絶対にないであろうと思われるほど支払い、かつ最高級の啓示と不朽とも言える世界中の奉仕の委託を神様からいただいた人(注4)はその生涯の終わりに、「私と同じ心になって、・・・する者はいない」(注5)「私を支持する者はだれもなく」(注6)と言ったのです。このことは彼が間違っていたことを意味しているのでしょうか。誰があえてそう言いはることが出来るのでしょうか。)
(今日の箇所は "Called. Chosen. Faithful." の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003205.htmlです。このところスパークス氏の文章は滅法難しく、ほとんど訳せない状況です。誤訳が相当あるはずです。読者諸氏が了解してお読みくださることを切望します。なお本文章はあと20数行で全文が訳了できるものです。機会を見つけ続編を別サイトに載せたいと思います。なおスパークス氏が引用している聖書箇所は以下の通りだと思われます。念のために注を付けました。注1 エペソ1:4 注2 2ペテロ1:10 注3 使徒22:9 注4 パウロのこと 注5 ピリピ2:20 注6 2テモテ4:16)