2011年2月28日月曜日

主のために受ける苦しみと祝福

白椿 二輪(にりん)糟糠(そうこう) の妻挿す 
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(旧約聖書 イザヤ53:11)

私に質問をさせてください。この地上で、主イエス様以上に神様と「完全」につながって生きた人はかつていたでしょうか。主イエス様はまことに(地上的なことから)引き離されておりその心は神にあり、その点で他のどんな人とも違っていました。どんな人も主イエス様以上に霊的な割礼のしるしを帯びて生まれた人はいません。主イエス様は(父なる神様に対して)二心を持たない、まことの人でした。

旧約聖書の偉大なメシア預言の章であるイザヤ53章に戻ってみましょう。「彼は子孫を見ることができる・・・彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ53:10、11)よろしいですか。私たちは預言者イザヤがこの預言を通して知っていた以上のことをもはや知っているのですよ!

私たちはゲッセマネ※、すなわちいのちの激しい苦しみにあっている主イエス様と一緒にいたのです。そして今ではその苦しみをくぐられたイエス様とともにいるのです。それ以来どんなに多くのキリストの子孫がいることでしょう!

親愛なる皆さん。もしあなたがたがクリスチャンが極めて少なく、この世界に無数の人がいるのに、私たちクリスチャンは数えるほどしかいないと考えこまれるのなら、心の扉を開いて、黙示録の箇所に目を留めていただきたいのです。

「誰にも数えきれぬほどの大勢の群衆が・・・万の幾万倍、千の幾千倍」(黙示7:9、5:10) その数は人間のことばでは言い表され得ないものです。それらの人々が主イエス様の苦しみ以来集められて来たのです。まことに主イエス様はご自分の子孫を見られるのです。ゲッセマネという園は全歴史の中で最も実り多い園となったのです。あなたがたもこの私も主イエス様の子孫ですよ!私たちは主イエス様の苦しみを通して生まれ、今や新しいイスラエルとなされた契約の中にいるのです。

けれどもこの契約の意味と価値は主に対する愛によるということを是非覚えて下さい!このことは極めて明白なことです。最も偉大な実りはつねに「二心のない」人々、主にささげきった生活から生まれてきました。この契約には二つの側面があります。新約聖書はイスラエルの歴史から多くの警告を得ていますし、私たちももし心が二分されこの世とも神の世界ともうまくやって行こうとするなら、その契約の約束していることはことごとく無に帰するということです。

主がすべてのものを持っておられる時、私たちが失うものは決して存在しません。そしてそれが(霊的に)割礼を受けた心を持つことにより明らかになることであります。願わくは、ここにいるすべての人がそのことを信ずることができますように!

(今日の箇所は God's New Israel - Chapter 3の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003058.htmlです。1969年スイスAeschiの集会で語られたメッセージのようです。彼が召される二年前のメッセージです。※「ゲッセマネ」とはマタイ26:36~、マルコ14:32~、ルカ22:39~、ヨハネ18:1に書かれていることがらであり、十字架刑を翌日に控えた主の祈りを指します。さて、今朝は昨日までの暖かい天候と打って変わり、日本は生憎雨となっています。そんな雨中山茶花を目がけてヒヨドリやメジロがやってきます。山茶花や赤い椿は猫の額ほどの狭い庭の中で比較的幅をきかせているのですが、「白椿」は狭い庭の更に隅っこでいつも人知れず蕾をつけます。そんな椿を小生はいつも気づかず見過ごしてしまうのです。「白椿」は昔、妻がバザー会場で100円で購入したものだそうです。)

2011年2月27日日曜日

御名を運ぶ器

舟浮かべ キリストの名を 運びたし (叔母の遺墨「落日帰舟」より)
行きなさい。あの人はわたしの名を、・・・・に運ぶ、わたしの選びの器です。(新約聖書 使徒9:15)

主は器を必要としておられます。ダニエルのような器です。個人的であろうと集団的であろうと神の証を神のために運ぶ器です。またネヘミヤのような人を必要としておられます。証が妨害されたために陥っている人々の苦悩をそのまま体現している人です。

またエズラのように神の御心に反対するいかなるものとも一瞬たりとも妥協しない人を必要としておられます。さらに神にはエステルのような器も必要とされています。彼女は襲い来る嵐をものともせずに、神の民を敵の脅しから解放するため、民のいのちのために王座にいのちがけで向かって行きました。ああ、何とたくさんの祈りが積まれたことでしょうか!

だから愛する方々よ、もし私たちが主の終わりの時の働きにおいて主に役立つ器でありたいなら、私たちの心にも似た態度が必要と「されねば」なりません。私たちは神様の関心を持ち、非常に深い方法で訓練されねばならないのです。主と主の関心のために価値があるものは何ものをも提供するのを惜しんではいけません。

あなたが主に機会を与えるなら、主はどんなに事を貫徹されるかを(知って)驚くことでしょう。すべてのことは、「必要」の認識とそれぞれの心にかかってくるこれらへの配慮・重荷から始まります。私たちが本当に聖霊の促しの中にいるなら、このような旧約聖書の器となった人々に見いだされる共通した特徴は私たちのうちにも「織り込まれている」ことがわかるでしょう。

そしてこの一事、すなわち主の重荷と主の民の証に心を配り、捨てられた民となることを甘んじて受け入れることでしょう。

(今日の箇所は The Time in Which We Live の抜粋引用訳です。最後の文章などは訳するのが難しくこのように表現しましたが、果たしてその通りなのか皆さんは是非http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003056.htmlの原文にあたって下さい。そして間違いを指摘して投稿して下さるとありがたいです。全体の文章は短く通読可能です。前回2月14日の「主のために苦しむ」も同じ文からの抜粋訳です。写真の遺墨は一昨年召された叔母の作品であります。先日の葬儀に出席し、いとこの家に同年代の三人で泊まった時にこの写真を撮影しました。この叔母の字は生きていて、いつ見ても味があります。叔母に聖書のことばを書いて欲しかったです。でも今日のテーマにぴったりだと思い、使わせていただきました。)

2011年2月26日土曜日

仲介者の手にすべてがある、それ以外にはない

山茱萸(さんしゅゆ)黄色き花を 青茶に 点描せし 春の便りかな
神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(新約聖書 1テモテ2:5)

神によるすべての事柄の答え、説明、認識の手段は一人の人にあります。その人とは「人としてのキリスト・イエス」です。この世界が悪い方向に走ってしまう時、この住民のいる地上は一人の人に「よって」裁かれます。人類はその人とどんな関係を心の深層において持っていたかによって将来裁かれるのです。

裁きの問題は決して人がいかに善であったか悪であったか、また正しかったか間違っていたか、あるいはそれらが多いか少ないかという程度によって裁かれるのではありません。一つのことが問われるだけです。「あなたはキリストのうちにいますか」であります。もしあなたがキリストのうちにいらっしゃらないなら、もはや(先程述べたようなことがらが)多いか少ないかということには何の違いも生じません。

神の意志、宣言はすべての事柄が神の御子のうちにあるということです。あなたは御子のうちにいますか。なぜ御子を信じないのですか。裁きの根拠は極めて単純です。すべての者が一人の人にあって集められるからです。私たちのために神が人となったその人のうちに(裁きが)あるということです。それが裁きの根拠なのです。

結局、すべては極めて単純ではあるが包括的で祝福に満ちた真理に戻るのです。すなわち神を満足させ、神の目的を実現し、私たち(罪人)の要求を満たすのはキリストであるということです。すべてのことは一人の人、すなわち「人としてのキリスト・イエス」に帰するということに他なりません。

主が引き続いて私たちの目を開かせて、キリストの栄光と神のしもべでもある天的なこの人を見させて下さいますように!

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 15の抜粋引用訳です。 と言いましても、A4判で138頁にまたがるこのメッセージの最後の部分http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003056.htmlです。15章だけの表題は「神がお立てになった人(キリスト・イエス)」というものです。引用聖句はローマ8:29、ガラテヤ4:19、エペソ2:15~16、1コリント1:24~30、12:13、ガラテヤ3:27~28、使徒17:31ですので是非聖書自身をご覧下さい。なお1月20日、2月16日の本ブログの文章は9章のものです。庭に山茱萸の花が一斉に咲き誇っています。つい数日前には堅い蕾でありましたのに。日本はここ二三日一気に気温が上昇しています。)

2011年2月25日金曜日

Christ in heaven

紅梅の 色鮮やかに 古希迎えし 我がはらから と語りし日(彦根城馬門) 
「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(新約聖書 ヘブル12:26)

すべてのものが地においても天においても揺り動かされます。そのことを通していかに生きておられるキリストの支配が貫徹しているかをわからせるためにそのことが現在するのです。当時のユダヤの信者たちは神殿や神殿を支えている全システムが崩壊されて行くのを目の当たりにしました。その結果彼らは自らがどれほどキリストから恩恵を得ているのか、また自らの生活がどれほど地上の事どもに縛られているかをよく熟知したことでしょう。彼らは神殿やそれにまつわるすべてが消え去って行った時、残されるものが何であるかを知り得たことでしょう。

神様が揺り動かされるのはユダヤ教だけではありません。ここで言われている天そのものも揺り動かされるのです。神様は将来天地を揺り動かされるでしょう。その揺り動かしによって地上のシステムが崩壊し、なかんずくキリスト教が天的なことがらの代理者を自認していることが試される時(と申しますのはキリスト教はユダヤ教がそうであったようにそのように自認することによって発展して来た宗教ですから)、私たちが残すものが明らかになるでしょう。

人々は新約聖書にしるされている地上の代表者を教会や宣教や教会制度の啓示だとして参りました。だからすべてのことが試されるのです。と言いますのは多くのことが今やそのるつぼの中にあるからです。論点は天と地の揺り動かしです。その結果一体何が取り残されたのでしょうか。焦点はキリストにあります。

私たちが言って来たことをあなたがたが好まれるかどうか、また同意されるかどうかは私には気になりません。けれども、私は、私たちにとって、天におられるキリストがいのちであり、すべてであり、この地上ではキリストに代位するものは何もないということは是非ともお伝えしたいのであります。

神様はすべてのことがらをキリストに代位する目的をもって動かされます。神様は永遠の昔から万物においてキリストが卓越しておられ、完全な満たしを備え、何者もイエス様の前では栄光のあらわしようがなく、またその地位につけるものはないように定めておられました。

主なる神様は(このような)もっともっと大きなキリストの量りの中へと私たちを導いて下さり、かつ、そのキリストを私たちの中に招き入れてくださるお方なのです。

(今日の記事は That Which Was From The Beginning - Chapter 2 の抜粋引用訳です。訳は例によりいい加減です。またこの文章は結論部分にあたりますので、読者にはすべからくhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003055.htmlの原文を確かめられることをお勧めします。昨日の話の続きだが、叔母の葬儀の読経は私の中学一年のときの数学の先生であった。ところが今もそのおり何度も聞かされた読経が音の余韻となって脳裏に残った。一方遺された叔父を親族が皆気遣っていた。そう思って今朝のこのスパークス氏の文章を一章から通読していたら、二章の始めの方に次の件があった。If you heard that word spoken into your heart by the Holy Spirit repeatedly, "Heavenly! Heavenly! Heavenly!" you would say, "Now what is the Lord trying to say to me? What is my danger? Where am I?" というようにheavenlyがスパークス氏によって三度繰り返されていた。叔父やいとこたちとともにこのheavenlyをともに共感したい。NZの地震と言い、今日の箇所は不思議な思いで読ませていただいた。)

2011年2月24日木曜日

神の国にはいりたい

梅の花 汝のいのちの きよらかさ (彦根城大手門橋付近の今朝の梅) 
まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(新約聖書 ヨハネ3:5)

どんな人も未だかつて「自分自身の力」で神の国に入った者はいません。そのことは人々がやりとげる決断や決意の力によりすがればすがるほど、それだけ神の国に入るため自ら決定したり決意したりするその意志が求められているのです。(しかし)それはなされ得るものではありません。

そのことと結びついて多くの誤解がこれまでもなされて来ました。そして完全に間違った立場を多くの人々は取るようになってしまったのです。なぜなら努力がその線に沿ってなされ、大多数の人々が自分自身の理性や感情そして意志を、まるでそれらが新しく生まれ変われるかのように働かせるように求められて来たからです。

このようにキリスト教に関心を持ち活動することは同じことを意味しますが、(神の)国に入ることはそれとは全く別のことです。大勢の善良な人々はキリスト教に興味を持ち、活動もします。それらの人々はクリスチャンの生活基準やその教えを見て、もしそれが適用され得るなら、世界はどんなに変わることだろうかと思ったりしました。

そこで彼らはキリスト教に熱心になり、その結果自分たちは神の国に入ったと思い込んできました。けれども全然そうじゃないのです!皆さんは(神の)国に入らずともキリスト教にすっかり関心を持つことができるのです。

このことが主イエス様が実際にまた別の簡潔なお言葉でニコデモに言われたことであります。(冒頭のことばはイエス様がニコデモに言われたことばであります)(結局、神の)国に入る唯一の道は私たちがイエス・キリストを信じ、賜物としての神のいのちを受け取ることによって(可能)なのです。そしてそれが新しく生まれた者となった者の新しい原則となります。すなわち(このいのちにより)万物が始まり完遂されるという原則であります。そのいのちは新しく生まれた者の性質と力のすべてを宿すのです。こうして私たちは神の国と呼ばれる国に入ることになるのです。

(今日の箇所は The Meaning of Divine Life - Chapter 1 である。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003054.htmlである。火曜日叔母が亡くなり、葬儀に再び滋賀に帰った。愛する人の死ほど人を厳粛にさせる出来事はない。仏式の葬儀では人のいのちの儚さが強調され、念仏が極楽浄土に行く道だと勧められた。念仏により神の国にはいることができればそれは素晴らしいと思う。しかし果たしてそうなのだろうか。これに対して、聖書は「人は主イエス様、私たちの罪の身代わりに死なれ三日後によみがえられたイエス様を信ずる時に、永遠のいのちを賜物として受け取り、神の国にはいることができる。」と主の十字架の死よりの復活を対峙する。主の復活は単なる願望ではない。恵みの事実である。ここに永生の根拠がある。)

2011年2月23日水曜日

「永遠」ということばを使うことのできる唯一のお方

先週土曜日に目にした菜種畑とみづうみと比良山(滋賀県守山市)
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(新約聖書 ガラテヤ3:28)

パウロの用法にしたがえば、私たちが本当に「キリストにある」なら、たとえお互いが何千マイル離れていようとも、私たちは常に一緒にいるものとみなされているのです。主イエス様は私たちを、この国にいる者、あの国にいる者、またそれ以外の別の国にいる者とは見ておられません。主御自身がこの宇宙にあるただ一つの国なのです。だから私たちがキリストのもとに来る時は国や国籍を離脱しているのです。

私が思いますのに、恐らくこのことはこの人(※)が異邦人であるという事実からはっきりさせられることです。 なぜならユダヤ人なら(その人に対しても)排他的であり、次のように言ったことでしょう。「私たちが唯一の(神に選ばれた)民であり、私たちの国こそ唯一の国なのだ」と。(ところがユダヤ人である)イエス様はこういう国境の外に出て行かれ、外の世界と接触をされたお方だったです。

主イエス様にとっていかなる地上の区別も取り去られています。キリストにあっては、もはやイギリス人も、スイス人も、ドイツ人も、フランス人も、さらにはインド人もないのです。唯一の国籍があるだけですし、その国籍とは天にあるものです。一つの言語があるだけであり、霊的なものであります。その国とは天国です。

私たちがここにいようとも、主にあって私たちはキリストにある一人の人として一緒にいるのです。あらゆる地上での場所や時間の違いは主にあって消滅しています。人が一分間に何百マイルとか何千マイルとか旅をしてそれほど時間をかけないで月に到着することを、何と素晴らしいことだとたとえ思ったとしても、私たちにはこの世界を旅するにはかなりの時間を要します。

ところが、皆さん、私たちがキリストにあるなら、まさしくこの瞬間に六千マイル七千マイルも離れた兄弟と接触できるのであります。そのことは一つの奇跡であります。しかしここにその奇跡のしるしがあるのです。このいのちは永遠のいのちです。時はありません。場所も問いません。イエス様がおられる時、すべてのものが「今」なのであります。

(今日の箇所は Discipleship In The School Of Christ - Chapter 4 からの抜粋訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003053.htmlです。※これらの文章はいずれもヨハネ4:46〜54の福音書がもとになっています。このスパークス氏のメッセージはここに登場する王室の役人とその家族はユダヤ人からみて異邦人ですが、いかにしてイエス様を信じ救われるかを述べています。聖書そのものがそのことを語っているのですが、この原文を読まれると恵みは何増倍にも読まれる方に帰ってくることでしょう。)

2011年2月22日火曜日

死ぬと思い定めたり

折々に伊吹を見てや冬ごもり 芭蕉
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(2コリント1:9)

あなたはご存知でしょう。主の民でない人々は自分たちが(霊的に)死んでいるという事実を知らないで生きているということを。その人たちは自分たちに肉体的な死が訪れるまでは死がそんなに大切な真実性を持ったものとは考えないのです。日常生活で物事がうまく行っており、健康で貯えもある時など、死は決して現実性がありません。

けれども、死は神の子どもにとっては(天の)ふるさとへ連れて行かれることであります。私たちが神様の御手のなかに入れられるやいなや、言うならば、全く具合が悪く、耐えられず、進むこともできないような時、このことが始まり、私たちは(天の)ふるさとへ連れて行かれるのです。私たちの生まれながらの命や力はこの場合、何にもなりません。

 神様の御手のうちにある真のクリスチャン生活の進む道は段々無力を味わわされて行くものであります。それは間違っていますか。いいえ、無力さを経験もし、何事につけ不可能なことを体験するものです。もしそのことがあなたの知るところとなっているなら、事態が悪く進んでいると考えないでください。もし、あなたが神様との交わりに導かれているという絶対権限の中でなお力がないという現実を知らなかったら、あなたはそのことを霊的に未成熟の段階に自分はいると捉えるかもしれません。(それなら)あなたは死んだ人と同じです。しかし死の事実はあなたを天のふるさとへ連れて行き、本当の者(生きる者)とするのです。

しかし、一方では復活が死に反対し凌駕する形となって現れます。その背景やその基礎に基づいて神の子どもはますます次のように言わざるを得ない立場に移されるのです。「それは主だった。それが主なのだ。私はそのことを説明できない。私はそのことを説明する者ではない。それが神のすべてである。」あなたも復活が神のすべてであると十分ご存知でしょう。あなたは様々な利口なことやでっちあげをうまくやりとげることができるかもしれないが、死人をよみがえらすことに関してはまだ何もできなかったのです。

それは神の権限です。唯一、神だけの(権限)です。だから神様の御手のうちにあって神の子どもはますます前進的に「それは神様の(もの)です。神様のすべてです」と言わざるを得ないところまで連れて行かれるのです。そしてそれこそが証なのです。主はそのことをされた。主はこのことを今なしておられる、という証です 。

それが荒野でのイスラエルの歴史ではないのですか。ごらんなさい。イスラエル人はもう終わりだと思われるところまでどんなに何度も何度も連れて行かれたか。この先には何もないというところまで。でも、それから彼らは新しい歌、「主はなされた」と歌って必ず出て来なければならなかったのです。それこそ死に打ち勝つ勝利です。復活のいのちのあの力なのです。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 6 です。 ちょうど土曜日の記事の前の章にあたる箇所ですね。原文は例の通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003052.htmlです。写真は先週の土曜日新幹線から見た伊吹山です。この芭蕉の句は私の町の神社の境内の碑に刻まれています。また好事家の手によって人家の庭石に刻まれたりしています。それほど私のふるさとはこの伊吹の句に親近性を感じたのでしょうか。私がこの句を初めて知ったのは前にも触れたことがあるのですが、高校時代で、寺田寅彦の随筆によってでした。彼のこの句の考察はさすがなものがあります。私はそれに対してあえて「折々に御文(みふみ)開きて天国へ」とそれこそ季語なしの無粋な句で今日の記事をまとめさせていただきたいのです。)

2011年2月21日月曜日

私たちは主の作品

日本一の菓子職人の制作になるチョコレートによる、ものの見事な作品
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(新約聖書 使徒17:28)

全聖書は人が神様のもとにもどり、神のうちに入り、最初の状態に回復させられることについて述べています。「神の中に生き、動き、また存在している」とは霊的生活の根本的な真理です。私は皆さんにお示しし考えていただきたいことが一つあります。それはもし皆さんが今述べましたことをそのまま受け取ってくださるなら、皆さんに大変な助けになるということです。主が何かをおっしゃるのは非常に単純なことであって決して難解で受け入れがたいことではありません。

ただ、主から来ることは、たとえどんなに外見上極めて単純であったとしても、主がお持ちである広範囲の知識と理解力をふくんでいるのです。その「単純な」ことが皆さんを大変悩ませるのかもしれませんが、それは重要ではありません。主イエス様が「わたしにとどまりなさい」とおっしゃるのは極めて単純であり、極めてありふれたことのように響きますが、すべてこれまでの(人類の)歴史や偉大な原則や真理をふくんだ上でのことです。

「もしあなたが自らの環境(注:主と交わりがある環境)から出るなら、あなたは害毒にさらされ、その結果、霊的な病に陥ってしまいます。あなたの健康のために、わたしにとどまりなさい。いのちのためにも、あらゆる事柄のためにも、わたしにとどまりなさい。そうすれば、わたしはあなたにとどまります。」(と主イエス様はおっしゃいます)

皆さんはもうそのことをなさいましたか。主がおっしゃることは一見したところまたもや「小さな」ことに見えるかもしれませんが、もし皆さんがそのことを知られるなら、そのことばの中にたくさんの意味があることを発見なさることでしょう。

よろしいですか。あらゆる無秩序が生まれる主たる原因は皆さんが神様との正しい関係から出てしまうことにあるのです。そしてそのことが最初に起こったこと(注:アダムの堕罪のこと)なのです。救いは私たちが主イエス様の贖いの働きを受け入れた時に経験するように、あなたが神様にあって守られていたところに戻ることです。

(今日の箇所は Divine Order – In Christ - Chapter 3 です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003051.htmlであるが、二三行付け足して訳しました。なおこのメッセージは1959年イースターの折り語られたもので、スパークス氏は71歳になっているはずですが、同サイトには彼の肉声でのメッセージが収録してあります。ゆっくりと落ち着いた声ですが、年齢よりは老けて聞こえます。もっとも彼は伝記的なものを読むと病気がちであったので、そのことが影響しているのかもしれません。いずれ評伝的なものも訳してご紹介したいと思っています。写真は先週の土曜日に出席した結婚式披露宴会場のメーンテーブルを飾っていた二つの作品のうちの一つです。新郎も新婦も某菓子店に勤めており、その同僚の方が作られた作品で、同社のホームページによるとWPTC(World Pastry Team Championship)で優勝したとありましたので、正確には世界一になりますね。)

2011年2月20日日曜日

いのちに至らせるかおり

人知れず 椿ゆかしく 咲きてあり 弥生の声に 御文(みふみ)合わせて
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(2コリント2:16〜17)

主は私たちを教会を形成するために召されたのではありません。教会を形成することは私たちの仕事ではありません。もしそのことが認識されたら今日事態はまさしく変わって来たことでしょう。教会を拡大なさるのは主です。主が成長を支配しておられるのです。私たちがなさねばならないのは主の復活の力により主が約束してくださった通りに生きることです。

たくさん人がいる中で主が主の子どもたちの中でたとえ二人しか見つけることができなくても、その人の内に主のいのちが満ちていて自由であり、他の人々を集めようとせず(あるいは一定の真理や教えを納得させることにより人々を集めようともせず)ただキリストは自分にとってどういうお方か証さえできるなら主は道を開いてくださいます。

教会はあなたの生活によっても、また建物を買って人々を迎え入れるために励んだり、集まりに招いて教会員の役割を果たし地方教会を形成したとしても、それによって増やされるものではありません。それは主の取られる方法ではありません。成長はいのちによります。そしてこのことは先ずはいのちがただ一人の方の魂に入ることによるのであり、それから長らく時が経って他の人にそのいのちが与えられるのです。もっとももっとすぐにそうなるかもしれません。しかしポイントは成長はいのちによるということです。それが教会の成長なのです。

主の教会の成長にとって、主がいのちの主導権をとられ、中心であらねばならないのです。私は確信しているのですが、いのちが中心になるなら遅かれ早かれ二つのうちどちらかが起こります。すなわちそこではキリストが完全に徹底的に拒絶されることが極めて明白になるか、それとも逆に増し加わる成長があるかであります。

いのちにはとてつもない力があります。そしてその主のいのちは駄目になるか逆に息づくかのどちらかであります。いのちに対して取る人の態度によるからです。主はいのちに対してはいのちの香りであり、死に対しては死の香りであります。決して事態が中立で終わることはないのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 11である。「生兵法は大怪我の元」とうそぶきながら訳業を続けている。知らぬは本人だけで、30点程度の答案を毎日披瀝している厚かましさよ。昨日、結婚披露宴でまた親戚の英語教師に会った。様々なことを教わった。これからも教わりたいと思う。読者の中には英語に堪能な方もいらっしゃるはず。忌憚なくご批判、またつたない訳の訂正をお願いしたい。今朝、庭に椿の花二輪を頂上あたりに見つけた。すでに一輪は前から咲いていたようで、よく見ると地面に花びらの一部が落ちていた。そこでもう一輪の昨日今日咲いたであろう椿をカメラに収めた。みことばは香りについて載せている。椿の香りはないが、みことばの真理にあやかりたいと思い強引な歌になった。原文はいつもの通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003049.htmlである。)

2011年2月19日土曜日

御霊に導かれる教会

近江路や菜の花晴の朝さやにみどりたたへし春のみづうみ  伊藤左千夫
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(新約聖書 エペソ4:3)

新しい創造は一つの交わりであります。聖霊が住まわれる一つのからだであり、聖霊が働き、実際に聖霊によって一つにされるのです。「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」(1コリント12:13)一致は聖霊による一致であります。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」(エペソ4:3)一致は「つくる」ものでなく、「保つ」ものであります。(一致が)ここに「新しい創造」によると言われるゆえんがあります。

いいですか、もちろん、あなたがたが新創造のいのちが意味するものを体験する時、すべてのことがらに対して戸を開く鍵がまさしくそのこと(保つということ)にあるのです。そしてそれに伴って、あなたがたは全体にわたって天的ないのちにふさわしい理にかなった秩序を取り入れることになるのです。

天的ないのちは天の法則に従います。決して法則がないということではありません。このからだに属する個々のメンバーが自らの法に従うということではありません。私たちは自分勝手にするということが許されず、このひとつにされる法によって結び合わされるのです。聖霊が自分勝手にすることを許さないのです。

私たちはその法を自分で支配することは許されません。個人として行動することも許されないのです。聖霊が許さないのです。この(新しい)いのちにともなうふさわしい秩序があります。このいのちが有機体の各部分にふさわしい自らを表すのです。いのちは聖霊に従います。

創造のこの部分は本来備わっている法に従うだけです。これが聖霊のいのちです。だから、あなたがたはこのことを組織化したり機構としてする必要はないのです。もしあなたがたがそれを始めるなら直ちに死をもたらすだけです。新約聖書によっていつの間にか既製化されてしまった型に従って新約聖書の教会をつくろうと試みることは、全然型を持たないことと同じくらい致命的です!そうすることは自殺行為です。いのちが働くなら事は成るのです。

私たちはこのことをこれまで真理を知る限り学んできましたが、相変わらず、霊的な活動に当たっても、生まれながらの肉のいのちによって支配されているのです。御霊が働く以前に無秩序があり行動があるのです。しかし私たちのやっている事と言ったら、全員が学校にいて、学校では新約聖書の基盤の上に何かを組織立てする必要がないという決まりや原則や真理を得々と発表しているようなものです。それに対して聖霊が本当にいのちの働きのままところを得られるならばことはいっぺんに起こるのです。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 7 です。朝早くこちらを発ち、姪の結婚式に近江に帰り日帰りで戻ってきました。姪の結婚式には泣かされました。親子の情、新しい夫婦の誕生は何度立ち会っても感動させられます。二人のうちに主イエス様がおられるようにと祈らざるを得ません。二人ともこのブログではおなじみの近江兄弟社出身で、牧師さんの司式で行われました。その会場がこれまたいつも私たちが「近江八幡喜びの集い」を持つ会場でした。その上、会場近くに写真に示しましたように菜種畑が湖岸に広がっていました。伊藤左千夫さんのこの短歌を知ったのもつい数日前です。不思議な神様のみわざです。おかげで今日の訳は生煮えですが、ご勘弁を!原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003048.htmlです。)

2011年2月18日金曜日

無尽蔵な天の祝福をくださる父なる神様

キリストに顔を向けようまっすぐに眼(まなこ)を開き心をひらき(後藤瑞義)
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(新約聖書 エペソ1:3)

私たちが生活したり、私たちが奉仕(宣教や天職にたずさわるにあたって)するにあたって必要とする力は、天的であり枯渇することなく腐朽であり、かつ私たちが自由に用いることのできるものであり、それはキリストとのつながりの中ではじめて与えられるものであります。これが(主イエスを信ずる者の)最大の強さの秘訣です。

無尽蔵に天からの豊かな富が得られるところ、それはキリストが人として歩まれた地点と同じところに私たちがやって来るということですが、そのことが大変なことであり、あらゆる強さの源なのであります。そして私が思いますのに、私たちがそこに達するのは漸進的であり、決して瞬時ではないのであります。

私たちはその地点に(キリストの)弟子となることによって初めて近づけるのです。そしてその弟子の道とは自らが空しくなりまた破産してはじめて完全に依存すること、すなわち神の恵み(すなわち神の憐れみ)によって成し遂げられるものです。私たちが空っぽになる時、主の満たしはふんだんに提供されるのです。

消極的な面はもちろんですが、積極的な面もあります。神様は究極的な目的者である方として決して消極面に止まられないお方であります。けれども主が壊され空しくされる時は私たちを驚嘆させるのに十分な積極的な何かをなさるのであり、私たちはいつも、そのことは主のおかげでした、私たち自身によるものではありませんでした、と言わざるを得ないのであります。

私たちは徐々に弟子として歩むことによってあらゆる人間的な可能性に立ち勝るものが天にはあることを知るようになり、これらの天にある富が働くのです。これが霊的なものの中核にあることです。これが生活や奉仕を霊的にすることです。それは天にある富を引き出すことであり、天からのいのちを生きることであります。そのことを霊的と言うのです。

霊性は霊的ないのちと霊的な歩みに現されます。その源泉は人自身や世から引き出されません。それらは全部上から引き出されるものです。その支配権は人からのものでも世からのものでもありません。ただ上からのものです。万物は完全に上からのものであり、全く人からではありませんので、その結果として生活や働きが霊的になるのです。

数人の方は霊的と言うと何か神秘的なことまたは架空の「何か」のことと思われるようです。たとえば霊的であるとは現実から遊離した心の状態だと思われるようです。よろしいでしょうか、霊的であるということはそもそも心の状態ではないことは確かなことなんです。

私たちが今話しているのは心が平安であり天的であることについてなのです。(御霊の)実であるものとしてこの種の何かがありますが、決して霊的であることは不透明で神秘的であったり、また抽象的であったりすることがらではありません 。かえって最も実際的なことがらなのです。

男性でも女性でも神様によって神様のお働きの一翼に加わる召命を与えられ、その求めに直面して自分にはその使命を実現するだけの能力も手腕も力もなく、全く不可能であり、試しにやってみるだけでも馬鹿げたことであり、理に合わないだろうと合点する時、そしてそのような状態でこの要請に答えるに十分なのは生けるキリストを内に持つことだと悟り・・・信仰によってキリストにすがりその使命を果たそうと前進するなら・・・そのことが霊的だということです。

それは実際的であり、途方もなく実際的であります。聖書記事はそれが実際的であることを明らかにしています。天的に事がなされるのはそんな風であります。キリストの霊性は日常生活の実際的な事から離れたものではありませんでした。キリストは日常生活の実際上の細々したことがらを天的な力や富を用いて行われました。

(今日の箇所は Boundless Heavenly Resources の抜粋引用訳です。この文章は1月14日のブログでも紹介しましたが、前回の文章の前にあたるものです。以下のサイトの原文より大幅に最初から訳してあります。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003047.htmlただし相当程度、意訳しましたのでその点はご了解ください。なお今日の写真はまたしても鳥になってしまいましたが、今盛んにあっちこっちの木々に「実」を求めてやってくるヒヨドリです。画面が暗く姿がはっきり見えないのは残念です。でもクリックされると拡大されてヒヨドリと梅の花が点描して見えますよ。また掲載した短歌は後藤瑞義さんのものです。私たち一人一人はすべからくこうありたいものです。この他にも心暖まる短歌が掲載されています。ブログで公開されていますので、拝借させていただきました。後藤さんにはこの場を借りてお礼を申し上げます。)

2011年2月17日木曜日

私たちは神の家です

セキレイの 喉を潤す 雪アイス
私たちが神の家なのです。(新約聖書 ヘブル3:6)

主は最初のお考え、すなわち主の民に対する主独自の言い回しが回復される必要を覚え、そうなるように切望されていますが、現実には霊的家族の回復は少しもないのであります。※ですから、主の独自な考えと関連した神によるどんな新たな動きも、(もしそれが起こされるなら)霊的な家族を再導入することは確かでしょう。(新約聖書に登場する「父」「子どもたち」「息子たち」「兄弟」「家族」「家庭」など多く使われている用語の)すべてはそのことを意味しています。

(今)そのことが少なからず機能停止になっているのかもしれません。多くの誤解は除去されねばならないでしょう。全部の伝統的な機構が廃棄されねばならないでしょう。霊的家族生活やその家族の中の訓練ということとつながりがあるところに素晴らしい価値があるのです。家族の中における訓練以上にすぐれた訓練の場はありません。

制度においてそれに代替する適当な訓練の場を探すことはできないでしょう。主の信頼できる、また主のために役に立つ男女は制度の中では訓練されないで、家族の中でこそなされるというのが本当なのです。極めて多くの場合、主の働きをなすために出かけて行く人々が人間関係でだめになるのは訓練を受けるその家族を欠いていることがあります。

神の働きの極めて多くの悲劇は組織化された方法で一緒に働いている奉仕者の間で人間関係が崩壊しているということであります。そして彼らは家族生活の訓練を通して難しい人とともに喜んで生活する方法を決して知らなかったのであります。霊的家族の訓練の中に大きな価値があるのです。それは極めて密接な人間関係を必要としているからです。

私たちは教会に行っている人々が仲間のクリスチャンたちや教会員と余り緊密な関係を持ちたくないと言っているのを聞いたことがあります。彼らはそれよりもはるかに互いに知りたくないのです。それがそもそも敗北です。そのことは主にとって大変大きな損失を意味します。

主がお取りになる方法は主の民をもっとも緊密な関係に一緒に導かれ、もっとも難しい人でも除外しないということです。主は全く特別な家族をお持ちになっています。すべての種類の人々からなり、それらのうちの何人かには変わった人々もいます。けれどもそれらすべては素晴らしい訓練の土台を提供してくれる(と言われます)。

(今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 6 の抜粋引用訳ですが、1934年になされたメッセージの聞き書きのようです。時代は第二次世界大戦の始まる前夜です。諸国民の対立抗争がそろそろ抜き差しならぬ状況に立ち至っている時です。特に日本にとってはこの時はすでに深刻な事態だったことでしょう。※を載せましたのは、実はその当時の教会の姿は初代教会からますます離れて行って、教会に集う人々はよそよそしくお互いに無関心になって行った状況がこの文章以前に紹介されています。それで出だしの文章がこのようになっています。この文章の後、この神の家族に新しく主を信じた方が加えられる喜びの叙述も続きます。ちょうど10日ほど前、長女家族に新生児が与えられました。先ほどその伯母さんにあたる方から写真がメールで送られてきました。家族の豊かさを思わされました。ましてや、神の家族はそれ以上ではありませんか。ここには後半にありますように、違った者が一つとされる神の家族の世界があるのです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2:14〜15。スパークス氏は戦争をどんな思いで見ていたのでしょうか。原文はいつもの通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003046.htmlです。誤訳はお許しください。2月3日の記事も今回と同じ文章の抜粋ですがそちらの方は13章のものでした。ご参照ください。)

2011年2月16日水曜日

豊かな「いのち」とは

枝垂梅 すでに満開 時近し 如月の雪 溶け去る日向
わたしが来たのは、羊がいのちを得、・・・(新約聖書 ヨハネ10:10)

一方で永遠のいのちが私たちの生来のいのちを切り離すために神様とのつながりを持つ原理として働くなら、他方でその働きは全く素晴らしいものであります。それが「主のなさることは私たちの目には素晴らしい」ということです。

主は私たちの肉体のいのちとしてお入りになり、私たちが最善の時にできたかもしれないが決してできなかったこと以上のことをなさります。確かにそれは現在の可能性よりもはるかにまさったみわざです。なぜなら主はこれまで私たちは人間として最善であっても何者でもないということを知らしめて来られたからです。いのちはそのことをなすのです。(主の与える)いのちはひとつの原理(肉の原理)を追い出し、別の原理(いのちの原理)を与え、いのちが働くようにその余地をつくるのです。

私は信じているのですが、そのことが主が「 わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(ヨハネ10:10)」とおっしゃった時に言おうとされた意味です。私たちはこれまでそのことは私たちが豊かになることを意味していると思ってきました。私たちは絶えず自分自身が素晴らしく意気が高揚し、エネルギーに満ちた思いを持つようにもっと豊かないのちをと求めています。

(しかし )主ははるかに実際的であります。そしてもっと豊かないのちとは以下のことを意味しているのです。いのちを持つなら、自らを少しずつ導く必要性があることに気づき、そのいのちだけが豊かさをもたらしてくれるので、いのちの道を歩むにしたがって、(主の)いのちをふんだんに必要とするだろうということです。

そして主の御意志はいのちを十分に与え、満たしの目的を達成されるということです。なぜなら(主の)目的はそのような豊富な目的であるからであります。(主の)いのちだけが目的にかなうものなのです。

(今日の箇所は All Things In Christ - Chapter 9の引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003045.htmlです。随所に括弧書きで示したものは原文にないもので、読みやすくするために使いました。 なおこの項目は1月20日の続きになっています。昨日火曜日の吉祥寺の学びでベック兄は再三「選ばれた者の解放と生活に対する奉仕」ということばを繰り返され、主を信ずる者がいかにそのために執り成しの祈りに専念しているかと迫られましたが、同時に「悪い思いは実現する、それから判決が下される」と悪魔の働きに言及され、たとえ悪魔が勝利を得ているように見えても、それは主の許しのもとにあることで、究極的には主の勝利が成ると語られ黙示12:11、ピリピ1:6などを引用されました。この注釈は昨日の項目につけたすことが適切かもしれませんが、忘れないうちにと思い、あえて今日の項目に付加させていただきました。)

2011年2月15日火曜日

かき乱す者たちの存在

昨晩は雪が降り積もり今年二回目の積雪となったが、その数時間前のうそ寒い古利根川で見た風景である。
あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。(新約聖書 ガラテヤ1:7)

神様のみわざの歴史の始めから終わりまで、大きな妨害者による攻撃が混乱だったことを認識するにはたくさんの知性を必要とはしません。神様は混乱の神ではなく、秩序の神様です。サタンは混乱の神です。

混沌状態から秩序を引き出すために神は「光よあれ」と言われました。ところがサタンは秩序から混沌状態を引き出すために「混乱あれ」と言います。サタンの固有の性質は問題と原理を混同することにあります。このことを行うためには、みことばが暗示しているように、構成上ちがっているものを融合し(あるいは融合しようとし)両者を切り離します。かくして構成上の不一致・矛盾が生じます。

私たちが完全に手のつけられない邪悪を身につけるのはサタンが主となって荒らしまわる時だけです。サタンの主な働きは混同によるごまかしです。

神の子どもの生活における聖霊の位置、意義、支配が重要性を持つのはまさしくこのような場合です。聖霊は「真理の御霊」です。聖霊お一人が真理が終わり偽りが始まるところを知っておられます。私たちが本当に「御霊のうちを歩く」時だけ、私たちは真理を知り、間違いから守られるのです。御霊のうちを歩くことは「心の割礼」すなわち肉と霊、キリストと自我との間で分離がなされている心を必要としています。

かなり善良な人々をだますだけの十分な真理を持ち合わせていない異端というものは決して存在しません。同じように、神の完全性は微塵もなく、それは疑わしいとか「危険」だとかと、何となく暗示を与え、思わせ、演技して来た悪魔の策略以外にありません。サタンは実に同じことを主イエス様ご自身にしたのです。それはパウロの全生涯を通しても言えます。

ピリピでの悪魔に取り憑かれた少女のスポンサーはパウロとシラスの福音伝動を妨害しました。(福音伝動は)のろわれ、傷つけられました。だから私たちはこう言わねばなりません。善いことは混乱されるかその真の意義を剥奪されるかして、それ自身の敵とされ得るのです。

(今日の箇所は The Danger of Coming Shortの抜粋引用訳である。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003044.htmlであるが、一部付け足して訳した。なお訳そのものもおかしなところがあるにちがいない。原文で確かめご指摘願いたい。)

写真にちなんで(続き)
一昨年もこの鳥の獲物を仕留める姿に遭遇して、2009年11月27日のブログで紹介したことがある。この写真を見る限り平和な風景に見える。しかし、実はこの場面で彼が水中を眺めているのは魚を見てのものだ。以後その獲物はこの一羽の独占するところとなった。いつの間にかその後、数羽が飛来してきたが、いずれも形(なり)は小さく、こどものようであり遠巻きに見ていたに過ぎなかった。この鳥の名前も無知でわかりません。どなたか教えてください。さて、昨日の鳥の名前は「つぐみ」でした。ブログを読んでくださった方から教えていただいた。感謝します。

2011年2月14日月曜日

主のために苦しむ喜び

何と言う名前の鳥でしょうか。川向こうで見つけた鳥が川のこちらがわに先に来て待っていました。続きは下の文章をごらんください。
私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。(新約聖書 コロサイ1:24)

パウロは「キリストのからだのために苦しむ」「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というふうに、主のために心から苦しみ悩むことを知っていた人でした。私たちもそうあらねばなりません。神様のために重要なことは神様の痛みを分かち合うことです。

キリスト者の働きにはすべて惹きつけられるものがあります。しかしそれは単なる人の熱意によるものではありません。また組織されたキリスト者の活動には熱中し興味があるものですが、その活動はその価値を決める人々の前でなされるものではなく、隠れたところにおられる神様の前に主を証しようとする心からされるものです。


あなたは主に迫られての愛がありますか。主の証が主の御名が称えられている人々の間で途絶えていることはあなたにとって心の張り裂けとなっていますか。私たちの基準に主のお苦しみが入って来ない限り決して事は運ばないでしょう。真に不変的で永続的な価値を持つ宣教は私たちの心に苦労が入れられる程度によります。


今日は悩みの日です。救われていない人であるか、主の民であるかどうかはともかくです。あらゆる真の霊的な活動は苦労を通して生まれます。常時神様に最も用いられている人はこの苦労を魂のうちに、そして神とともに隠れた生活のうちに経験した男女であります。


あなたはそれを経験しましたか。いいえ、とあなたは言うでしょう。それなら、主にお求めなさい。「私を主の関心のところへ連れ出し、今この時あなたの御前で私自身に手を伸ばしあなたが重荷とされるところへ連れ出してください」と。


(今日の箇所は直接にはエズラ記8章がテキストです。 The Time in Which We Live 川は大変です。弱肉強食の世界を目の当たりにしたからです。白い鳥数羽が川中に降り、親分が足の下に獲物を仕留めているではありませんか。魚でしょう。そのまわりには子分がいるのです。そこへしばらくすると黒いカラスが威嚇的に飛んで来て、今度はその食べ物を奪い取るのです。そんな中で載せました鳥は不思議な鳥でした。川向こうの畑で手前どものカメラを尻目にあらぬ方に逃げて行くのです。諦めて川中に目を留めたらこれはまた何と白い鳥の群れでした。それもそのはず、獲物を親分が仕留めたからでしょう。そんな光景もカメラに収めましたが、見飽きて対岸に向かったらこの鳥がいたという次第です。そんなあの鳥が遠く対岸にまで飛んで来たのでしょうか。そう思ったのは筆者の世迷い事に過ぎないのでしょうか。それもこれもこの鳥の名前を知らない無知から発しています。どなたか教えてください!

2011年2月13日日曜日

教会の基礎は何か

スコットランド・聖ジャイル教会 ジョン・ノックスゆかりの教会
この火がその力で各人の真価をためすからです。(新約聖書 1コリント3:13)

多くのことが主の御名によって行われていて、それらは明白で素晴らしく、「教会」のように見えますが、神様から来る暴風のようなことがらや火のような試練によりあらゆる人の働きが試される時には崩壊するように定められています。良い働き、たとえば慈善事業や教育、宗教、社会福祉などはいわゆる「キリスト教文明」の産物や副産物で、立派と言えることがらかもしれません。しかし、これらの事柄と、「新しいいのちをいただくこと」「新生」「上から生まれること」とを混同しないようにしましょう。

教会は個人的であれ集団的であれ、人がいかなる人間的な力によっても築き上げることのできるものではありません。教会は有機体であり、組織ではありません。「見よ。私はあなたがたに奥義を示す。私たちはキリストの骨肉である一人一人である。」もしあなたができるなら、教会を築き上げてみなさい!着手し、組織を作り、「運営」してみなさい!とてもなし得るものではありません。

教会は解き放された霊的力により自然に達成されるものです。それはキリストに関する素晴らしい事実を信じ受け入れることにあり、その事実とは聖霊の力にあって体験して、つかみとらされるものです。 神学上のキリストでもなく、教理としてのキリストでもなく、文字としてのキリストでもありません。ましてや歴史上のイエスでもありません。

聖霊によって心のうちに啓示された永遠なるキリストであります。キリストは死なれ、葬られ、よみがえり、天にあげられ神の王座に着かれました。このことだけが神の家との関連性でいうならば、宣べ伝えること、仕えること、位置を占め、(教会を)「築き上げる」のです。もしそうでないならば、時間や力を費やすことは愚かであります。そうではなく、この基礎(永遠なるキリスト)の上に立って労することが賢明なのです。

“The Servant of the Lord”から抜粋引用。 原文は以下である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003042.html )

2011年2月12日土曜日

あなたは「霊の父」の子どもですか?

聖書には鳩は聖霊の象徴として描かれている。たまたま古利根川で今日見かけた。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(新約聖書 ヨハネ3:6)

私たちは神様を決して理性によって知ることはできません。また神様を知りたいという非常な決心をもって近づくことによって知ることも決してないでしょう。私たちが神様を知り得るのは私たちの霊を通してであり、霊のうちにあってのみ可能です。それですから、霊的な知識が求めていることは霊は神様との交わりのある生き生きとした完全な働きであるということです。それはしばしば魂の側面が霊を押さえ抑圧し、その結果霊が自由に活発に働かないということをも意味しています。

人は分析的な頭脳によって特徴づけられることもあり得ます。その結果すべてのことを議論したがるものです。すべてのことを自らの頭脳や理性という一種の顕微鏡のごとき存在に支配させ理性的に考えようとします。そして納得できるまでは受け入れられないというやり方ですべてのことを正しく見ようとさえします。だから人は極めて分析的になり、物事を徹底的に調べるようになります。多方面から自分の疑問に対するもっともふさわしい答えを得るまで受け入れる意志はありません。そういう人は極めてゆっくりと前進するものです。

同じことは大きな宗教的な感情の力を得ることによって、神の世界に入っていきたいと思っている人に適用できるでしょう。それは今日悪魔の用いる大きな罠の一つです。(しかし言うまでもなく)宗教的感情は(神の世界に入って行く)基準になりません。真に霊的であることとは何の関係もありません。

私たちの主についての知識は、ほんのわずかのことや最初の一条の光のようなものであっても、聖霊により覚醒され、照らし出された霊によるものです。神を知る知識の増進は内なる人の成長によるだけであり、真理を把握する知的な能力が知るところではありません。私たちは思想を把握したり真理や教えを把握するために真理と親縁関係にある理性によってその能力を増進させることができると思うかもしれません。その能力はもうこれ以上発展する余地はないというまで増進することはできるかもしれません。しかし真の霊的知恵にとってはそのようなものはもっとも小さい尺度でしかあり得ないのです。

神の子どもは霊が新しくされた者であり、存在の中心にあって神様との結びつき、交わりをもっている人です。そのような交わりは生まれながらのどんな人間も持たないものであり、新生した霊以外のいかなる他の領域においても持ち得ないものであります。このような例として(旧約聖書の創世記に登場する)アブラムとロトを取り上げてみましょう。

アブラムは神様が語りかけられることを聞いていた人であり、神様との心の内側での交わりをもって歩んでおりました。ロトも起源からすると同じ道をたどりましたが、彼が歩んだのはアブラムとともにであって、決して神様とともにではありませんでした。言わば彼の歩みは神とともに歩むことは二義的であったのであります。これが霊と魂の違いの例になります。一方の者は神様との交わりが第一でした。ところが他方の者は神様のことをうわさで知っていたにすぎません。真の神の家族は最初のものです。その家族は完全には満たされずにいて、幼児の段階にいるかもしれません。しかし真の家族は神様の超自然的な働き、すなわち新生の結果として神様と心の内側で交わりを持っている人によって構成されているのです。

「霊の父」はそこから始められ、そこで続けられるのです。そして四六時中あらゆる他の領域にまさって霊に支配されることを求めておられるのです。

(今日も本来の引用文の前後を補って訳した。題名はこれまでと同様に、引用者が勝手に考えてつけている。本文はFilled Unto All the Fullness of God - Chapter 9 でありその抜粋である。原文は
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003041.htmlである。)

2011年2月11日金曜日

信仰とは「啓示」に従う道

去年の今頃この図書館を初めて次男のお嫁さんに連れられて見学した。一年、あっと言う間だ。
巴里の空 日本の空も 一つなり われら神の子 神の家族だ
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。(新約聖書 ガラテヤ3:25)

時々、啓示は私たちに物事はほんの暫定的なものにすぎないという事実を教えてくれます。パウロ自身がサウロと言っていた時を取り上げてみましょう。ユダヤ教に関する限り彼の純粋性は正しいものでした。モーセのことばに照らし合わせても間違いは少しもありませんでした。様々な事柄の中で「木にかけられる者は誰でものろわれている」神にのろわれているというこの一事をふくんでいるのが(それまでの)神の啓示でした。

タルソのサウロはナザレのイエスが木にかけられたこと、そして「なぜあなたはお見捨てになるのですか」と叫ばれた事実を確かに見もし、また知っておりました。そのことはサウロにとってイエス様が神様にのろわれたことの何よりの証拠でした。だから十字架から出て来るどんなことも抹殺されねばならないことでした。ユダヤ教はその目的に仕えていました。ところがその終わりがやって来て、今や他の何かが入って来たのです。より偉大なこと、より完全な神様の啓示が入って来たのです。今までの啓示は部分的なものだったのです。

パウロ(キリストを信じたサウロの後の名前)はこのような暫定的な事柄は、私たちにキリストを紹介しキリストに導く「教師」だと指摘しています。タルソのサウロにとってのテストは、彼はある程度はそれまで正しかったことに反して、それは彼を他のものに導こうとするものにすぎなかったという事実の光に、これから自分が果たして合わして行けるかどうかということに関してでありました。

権威をお持ちの主は、私たちが暫定的なものであるにすぎず、神様の究極的で完全なお考えでないものへ私たちが向かって行くのをお許しになります。それは私たちをある地点まで導くはずです。そしてその与えられた地点で他のものが入り込みます。そのところで次のように私たちに言わせる啓示が与えられます。「そうだ。これは目的を達成するものだったのだ。だが、今や終わりになって、さらにもっと大きな満たしへと導かれているのだ。」主だけが私たちを別のものに導かれるのは、私たちが主が導かれ究極のことをなされると言うことにどれだけ真剣かどうかに関わっています。

神様に用いられ、恐らくは祝福されてきたことを振り返る際にかなりしばしば多くの人は言います。「そうだ。そういうことを言うなら、私たちはその方法にしがみつき、そこにとどまるべきだった」しかし、必ずしもそうではありません。パウロにとって挑戦となったことは今や彼が見た光の中で、より十分な啓示をともない、彼がそこから離れ、より完全な啓示の満たしを求めて、それに従う備えがなされるかどうかということでありました。

こういうすべてのつながりを通して天からのビジョン(幻)への服従の問題があることがおわかりでしょう。なぜならこの服従は犠牲が伴うからです。それぞれにあった一種の価格があります。これまで言及してきたあらゆる場合に犠牲があったことに気がつきます。価格は支払われねばならなかったことを意味します。あるいは別の言葉で言えば、困難に直面させられねばならなかったということでした。多くの誤解があったことでしょう。たくさんの一人で進まなければならないことがありました。(天からの幻を)見たことのない他の人々は後について行くことができませんでした。孤独、誤解がありました。そして天からのビジョン(幻)に従う際には多くの他の方法において困難さが生じたことでありましょう。

結局のところそれは意志の問題です。そしてそれがそうなら、キリストにとってさらに大きな問題ではなかったでしょうか。主イエス様がなされたように父なる神様にそんなに完全に、またそんなに徹底的に、何も文句を言わずに心を合わせられた方は誰もいませんでした。主は父に即座に聞き従われ、完全に従われました。終わりにほんのしばらく、しかし厳しい深い心の葛藤が続きました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(このように)心を合わせられているのです。

(今日の文章も中々深い意味のあるものだが訳が適切でないのが悔やまれる。ただ読者の便を図って、 That Which Was From The Beginning - Chapter 3 からの抜粋引用を下の原文より前後を延ばし、長めに訳した。二月になり二回目の雪に見舞われた。原文は例の通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003040.html である。

2011年2月10日木曜日

内なる光、それは注ぎの油なり

陽の光 蕾開かせ 如月の 初雪くぐる 椿の花弁
キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。(新約聖書 1ヨハネ2:27)

主の民、すなわち聖書を携えており、(使徒の)手紙の中に記されている聖句を大変よく知っている人々は、もし本当に自分たちがキリストともに十字架にかけられ、その死に合わせられて死に、主と一緒によみがえらされて御霊を受けたのなら、自分たちはうちに住まれるお方を通して光に照らされているのですが、一体いつになったらそのことを悟り認識するにいたるのでしょうか。「キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える・・・」(1ヨハネ2:27)信者たち、クリスチャンたちは一体いつそのことを認識するのでしょうか。

手紙で聖句の知識のあるクリスチャンたちがどうして霊的な知識を切に得たい事柄について他の人々から教えを得ようとしてあちらこちらへと走り回らねばならないのでしょうか。私は相談したり、経験ある他の神の子どもたちがそれらについてどう考え感じているのかを知ることが間違いだと言おうとしているのではありません。しかし、もし私たちが自分たちの下した結論に基づいてその立場を確立しようとしているなら大変危険ですよと申し上げたいのです。物事の究極的な権威(者)は神の霊、注ぎの油である御霊であるからです。

私たちはお互いに助け合うことができますが、私の望みは、あなたがたが私がこれこれのことを言うから、今その言うことに従って行きたいというのでは困るということです。そうしないでください。私が言うことを、聞いてください。ノートを取ってください。しかし、それからあなたが神の子であるなら、(もしそうでないならしなくてもかまいませんけれど)あなたのうちにおられる究極的な権威あるお方のところへ行き、それが真理の確証かどうかを求め、さもなければ示してほしいとそのお方に求めて欲しいのです。それがあなたの権利ですし、あなたが神の子どもとして一人残らず当然持っている権利です。その権利は内住の光ある御霊、神の御霊の光の中にいるという権利です。

(今日の箇所はThe Anointing: Light Within Our Dwellings からの抜粋引用の私訳です。本文は下記サイトである。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003039.html 文章の後半にはパウロがいかに救われた時から御霊に従い行動したかが語られている。もし彼がすぐエルサレムに行き使徒たちに相談していたら、異邦人伝動は不可能であったろうと述べられている。そしてこのひたむきに主のみ求める彼の生き方を次の聖句で紹介しこの油注ぎについて書いた文章は終わっている。「私は、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのことを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」ピリピ3:8 That I may know Him!「私はキリストを知りたい」ピリピ3:10これがパウロの願いだった。

2011年2月9日水曜日

「アバ、父。」と呼びまつる私たち

神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(新約聖書 ガラテヤ4:6)

「わたしはアルファである」神を知る最初の音節そのものはイエス・キリストを知ることです。それはAから始まります。Aとは赤ちゃんが最初に発する舌足らずの発音のようなものです。「神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

クリスチャン生活の最初の言葉は「A」すなわち「父」から始まります。私たちはイエス・キリストを知るまでは父なる神様を知らないのです。父なる神様を明らかにされたお方はイエス・キリストです。神を父として知るすべての始まりはイエス・キリストによって私たちにもたらされるものです。イエス様が祈りの中で言われたことは実に真理そのものでありました。「わたしは彼らにあなたの御名を明らかにしました」(ヨハネ17:6)そしてその御名とは「父」でした。 

あなたは神様を知りたいですか。神様を父として知りたいと思われますか。イエス様があなたがたに伝え、知らせたいと思われたことを知りたいですか。神様があなたがたに明らかにしたいと思われた大きな富のすべてをまたは幾らかでも知りたいと思われますか。

あなたはイエス・キリストにあってそれを知り得るだけです。最初であり最後である、すなわちアルファでありオメガであるお方にあってそのことを知り得るだけです。文字の集まりである言葉なしの知識はありません。そしてすべての文字群はこれらの二者、すなわちアルファとオメガの間にあるのです。実に知識である知識、すなわちイエス・キリストをのぞいて永遠のいのちである知識はありません。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)イエス・キリスト以外に知識はありません。

そしてイエス・キリスト以外に神様との交わりはないのです。イエス・キリストを脇に置いて見なさい。神様は沈黙なさいます。神様はあなたにおっしゃることはもはや何も持ち合わせられないのです。もしあなたが御子にふさわしい地位を与えないなら、神様はまるで口のきけない方のようになられます。父は何の交わりも持とうとは思われないでしょう。それに反して、あなたが御子をほめあげればほめあげるほど、それだけ父なる神様はあなたのところに来られ、交わりを持とうとしてくださることでしょう。

(例によりThe Alpha and the Omega からの抜粋私訳です。例により誤訳の可能性を否定しません。是非おかしいと思われる方は原文でお確かめください。このところパソコンが変わったため投稿が遅くなり、写真も添えていませんが、今しばらくご勘弁を!
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003038.html)

2011年2月8日火曜日

主の目から見えること

あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。(新約聖書 ヨハネ21:18)

「燃える炎のような目」(黙示2:18)は真実を見ています。その目は多くのものを見抜きます。

先ず第一に、その目は伝統的でかつ組織立った宗教や「キリスト教」を見抜きます。その尋問はざっとこういうことです。あなたの宗教は組織や歴史ある伝統や家族から受け継いだことなどに愛着を持ち、こだわったものですか。それともあなたの宗教は新しくあなたにあって誕生したもの、あなたの上に生じたこと、あなたのいのちそのもの、またあなたの存在そのものですか、と。

次に(私は差し当たり特にこのことを考えてみたいのですが)その目は人の気質を見抜くものです。あなたが今いるところになぜいるか、またあなたが関心を持っていることになぜ関心を持つのか、さらにあなたが今つながりを持っていることとなぜつながりがあるのか、そしてあなたが解消しようとなぜしているかそれぞれの理由はいずれもあなた自身の気質がそうさせるということを悟るように求めます。

あなたの嗜好や気質が審美的で神秘的だとします。そうするとあなたはあなたのイメージにあわせて宗教を選んだり、そのようなものを宗教としたりするのです。あなたの気質が憂鬱であるなら、もっと深遠で深く重々しく真剣で内省的なものがあなたの気を引き、あなたが自然にそれに答えていることがわかります。あなたはそのあなたのイメージに合わせて神をつくり、キリスト教をつくり、キリストをつくり、また聖書をそのように読むのです。

あるいはあなたは実際的な性格の持ち主であったとしましょう。するとあなたにはすべてのものは「実際的」であるがゆえにだけ価値があるのです。あなたには上に述べたような瞑想的な人と一緒にいることは耐えられないでしょう。あなたは「マリヤ的」なことにいらだつでしょう。なぜならあなたの関心は「お皿を用意すること」にあるからです。あなたにとっていかに目的に到達するかは目的そのものにくらべてはるかに重要性がないからです。

あなたはいかなる想像力にもわずらわされず、なされた事柄(その日実際に明らかにされたことがどれだけあるか)にすべての価値を置くことでしょう。あなたの神とあなたのキリスト教はあなた自身のイメージにあった実際的な性質を持つ完全なものか、あるいはほぼ完全なものであります。ですから私たちはこれら他の気質の方々と一緒に生活できれば本当は素晴らしいのですが。

しかし、これはそうならないのです。なぜならキリストはこれらのいずれの人でもないからです。キリストは違います。キリストはすべてにおいて善を結びつけられるかもしれませんが、それは神の性質を全然意味してはいません。キリストは違うのです。上に上げたすべての例は人間の魂ですが、キリストの基本的な性質および真のキリスト教は神の御霊の性質のものです。それは天的です。もし新生が何かを意味するとしたらそれは信者には別の性質が生まれることであり、その結果、彼ないし彼女は生まれながらの性質が欲しないところに連れて行かれるということを意味しているのです。(冒頭の聖句はこのことを語っています)

(今日の箇所は The Only Realityからの抜粋引用の私訳です。訳の不明瞭なところは下記の原文でお確かめください。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003037.html )