2011年3月31日木曜日

キリストの復活の力

十字架降下 レンブラント 1654年
永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召されています。(新約聖書 1テモテ6:12)

復活は神様の御力の類まれなる証拠そのものであります。あなたがたは今更私が主イエスの復活について多くを語る必要は求めておられないかもしれません。

主イエスがその十字架につかれた時、すべてのことは主イエスが死んだことを確信させるためになされました。彼らは主イエスを十字架上で両手、両足を釘付けしてから、死んだことを確信するために心臓を槍で突き刺しました。

主イエスが十字架から取り下ろされ、墓に入れられた時、祭司長は言いました。「 番をして(死んだことを)確かにして欲しい」と。そのために大きな石が墓に向けてころがされ、石には封印が施されました。それから兵士たちに番をさせ、(復活に)備えたのです。主イエスが死んだことを確証するために、これ以上の何をなすことができるでしょうか。いいでしょうか、これが人と悪魔がなしえたすべてでした。

それから、そのすべてにまさり、聖書は証言します。「神はこのイエスをよみがえらせました」(使徒2:32)と。何という素晴らしい出来事でしょう! 復活とは。

そして、主イエスの復活のいのちのすべての潜在力は神の子どもに与えられるのです。私たちはこのまま終わりまで歩み続けることができるのです。なぜなら私たちには彼の復活のいのちがあるからです。主が「もう十分です、さあ、天に上ってきなさい」と言われるまで、神のいかなる子どもも死ぬ必要はないのです。死といのちは神様の御手の中にあります。どんなに素晴らしい経験であることでしょうか! 私たちがこの神のいのちにあずからせていただくとは。

私たちはこの他にも神様の御力の多くを言い表すことができます。すべてが全く素晴らしいことです。(もちろん聖霊のものである以外のものは何も与えられないのですが)全部のことと言いましたが、類まれなることは「キリストの復活の力」(ピリピ3:10)です。それが神の子の受け継ぐものであり、あなたがたと私が今知っていることであり、私たちのいのちの日の続く限り知っていくものであります。「永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召されています。」(1テモテ6:12)

(今日の箇所は Into The Heart of God - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003111.htmlです。)

2011年3月30日水曜日

十字架の原則

太陽を愛しておればたんぽぽは真似しまあるく輝いている 後藤瑞義
子は自分からは何事も行なうことができません。(新約聖書 ヨハネ5:19)

それが十字架の原則です。イエス様はご自身からは何事も行なうことができないという十字架の立場を甘受されました。そのことはすべて神様から発したことであるに違いありません。それ以外の道はありません。

私の人生においても30年前に大変革がありました。その時、十字架の原則が宣教(この宣教は長年携わってきたものですが)に反対して立ちはだかるようになりました。それだけでなく宣教に関するすべての事柄が、私自身に耐えられない重荷となるほど、スタッフを立ち上がらせるために、学んだり、読み物をしたり、真夜中までそういうことをしていたのですが、それらすべてに対してもその原則が反対するようになりました。

他の方々は恐らく私のそういう態度(一生懸命宣教に尽くしている姿)は立派だと思っていたでしょうが、その時は危機だったのです。宣教に携わっている方々やそのことを真剣に考えている皆さん、私の言うことに耳を傾けてください。大転換が起こり、この原則、十字架の原則を深く知るように導かれ、戸を閉めて密室で主に申し上げたのです。「私はあらゆる宣教をやめにします。 あなたが今してくださらなければ私は二度と説教をしたくありません。私はこの数年ずっと努力してきました。自分で生み出してきました。でももう終わりです。あなたがそれをなさってくださらなければ。」けれども私はその原則を知ったのです。皆さんもお分かりのように、十字架の原則とそれが私にとってどういう意味を持つのかを知ったのです。

私に自分のことを語ることを許してください。私は何らかの方法で家に収入をもたらさなければなりませんでした。翌週には教会の役員たちに辞表を提出し宣教師の職から離れるようになっていたでしょう、もし主がそうしてくださらなかったならば。ところが主はご自身の原則に忠実でした。私が宣教のために生み出すものはどんなことも完全に終わりました。そして神様が意図されたことを認識しましたので、十字架の原則は私のものとなりました。それは十字架の原則、すなわち私自身から出るものは何もないという原則でした。

骨折ることや精神や心の研究が生み出すどんな成果も神様の働きや奉仕においては通ずる手だてはありません。神様はご自身の原則に忠実なお方です。それはいついかなる時もそうです。その日から今日に至るまで宣教について悩みはなくなりました。宣教に行かせていただくことは容易いことであり、受け入れることよりはるかに容易であります。

宣教を口やかましく言うことは十字架につけられていない肉の働きであります。 そうなんです。それ以来開かれた天がずっとあるのです。もう一度この個人的なことに触れさせていただいたことをお許しください。しかしこのことは本当に起こったことなのです。十字架の原則はあらゆる分野に通用する原則であります。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003110.htmlですが訳に自信がありません。原文の読める方は是非原文と照らし合わせてください。なお、このテーマのところは過去二回載せています。一つは1/24「主に仕えるとは?モーセの場合」もう一つは3/3「わたしのことばは火のようではないか」です。これらはいずれも1954年のイースターで語られたメッセージです。さて、この70数日間の翻訳を通しても一度も自己を語る場面に出くわしませんでした。そのことを極力避けているようにしか思えないスパークス氏ですが、ここでは珍しく証をしています。カインとアベルという能力ある人間と何も持ち合わせない無力な人間の対比と言う観点で論が進められ、その例を聖書中に、洪水とノア、エジプトとイスラエル、バビロンとイスラエルの残りの民、ローマ帝国と初代教会のクリスチャンたちと探りながら、エジプト、バビロン、ローマ帝国はそれぞれ繁栄を誇ったが今や見る影もない状態になっていることを指摘し、再びカインとアベルに戻ります。そして全く無力なアベルに対して人の間でもてはやされ自信を持ったカインの方が主なる神様に退けられた次第が述べられます。そして次のように十字架の原則が歌われるのです。"Not the labour of my hands Can fulfil Thy law's demands; Could my zeal no respite know, Could my tears forever flow, All for sin could not atone." 何もできないことそのことを深く認識すること、それが「十字架」だと知らされる深い霊的感動を覚えさせられる場面です。そしてしばらくして今日の箇所が語られているのです。)

2011年3月29日火曜日

"Not,But ."

野の花よ 新しい愛 伝えてよ 苦しむ人たち イエスに来よと
あなたがたは手でさわれる山、燃える火に近づいているのではありません。(新約聖書 ヘブル12:18)You are not come unto a mount, a parable mount, that burned with fire...but ye come...(Heb.12:18,22)

神様の古い計画から新しい計画への移行はどんなに広範囲な動きであることでしょうか。新約聖書にはたった一つのことがあります。それは福音のうちにキリストによって紹介され、続いて使徒たちによって伝えられていったものです。したがって、ヘブル人へのこの手紙において、全体の堅固な焦点は、一つの計画から別の計画への移行にあります。

もう一度読んでください、そして誉めたたえてください。ヘブル人へのその手紙をもう一度読んでください。ここに栄光があります。「まあ!私たちは何というところに連れて来られているんでしょうか」幕屋なのでしょうか。そうなんです、手紙の書き手は言います、この地上に長い間その時が到来するまで地上に存在したのです。ところがそれがすっかりなくなっているのです、彼は言います、今や私たちは手で作られたものでなく神様が作られた本当の幕屋、天の幕屋に入れられているのですよ、と。

ご覧なさい。この移行はどんなに素晴らしいことでしょうか。一つの計画が別の計画へと場所を譲ったのです。私は以下のように問うことを躊躇しなければなりません。これがキリスト教界が脇道にそれてしまったことですか。相変わらず古い計画にとってそれは守ることですか。相変わらず厳粛な衣装をまとうことなのですか。相変わらずそれは数々の形式や数々の方法を伴う古のモーセの計画ですか。天の御国に入れていただく解放はないのですか。それが主がここで私たちに関わりたいと望んでおられることです。

事態は悪化し神の道から離れてしまっています。すると神様は戻って来てくださるのです。そこは彼らがにっちもさっちもいかなくなったところです。神様はつねに私たちとそのようにしてかかわってくださるのです。そうだとすると神様の始めとはどんなことでしょうか。それは世界が形造られる前の御子であります。神様が御子と相談されたところに戻られること、それこそが始めであり、神様が始められるところなのです。人はどんな者もさまよっています。「私たちはみな、羊のようにさまよい」と御文が語っている通りです。

神様は始めにすなわち御子に戻されます。キリスト教界はさまよってきました。唯一キリスト教界を救う道は神の始めに戻ることです、そして御子を真実に正しく受けとめ味わうことから始めましょう。

(今日の箇所は The Great Transition From One Humanity To Another - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003109.htmlですが、この作品はオースチン・スパークス氏の最晩年のメッセージの聞き書きです。上のサイトで調べるとオーディオ版で充分聞けます。1968年のものですが録音が46分残されていました。弱々しい声ですが、随所で強調が入ります。時々笑い声も聞こえます。残念ながら、ちょうど今日の箇所の始めの部分で録音は終了しています。"Not,But ."がこの箇所ではポイントなのですが、同氏はButと声を上げて言われます。この訳文が氏の品性を傷つけているものでしかないことを強く思わされました。)

2011年3月28日月曜日

主を慕う心

神様は御子を私のうちに啓示することをよしとされた(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)

もし、神様が愛される御子キリストが信者の心のうちで他のものよりも中心になり卓越しているなら、他のものは価値がなくなるにちがいありません。神様にいどむ論議は分断されるでしょう。人為的な論議や人の活動とその人自身の計画から引き出される論議や神様の関心事の中に自らを取り込もうとするような論議は、主イエスの啓示が内面的に明らかであるところには成り立ち得ないのです。それらの論議は存在できないのです。

私たちの前には次の二つの事柄が控えています。一つは心のうちにイエス・キリストの啓示を受けているゆえに主を慕っているというものです。もう一方は、心のうちにキリストの啓示を十分経験していないので、私たちが神の関心事であるとか神のためになるとか言いそうなことで、その実、決して決して神様の心をお喜ばせできない別のことに心が向かっているということです。(彼らにとっては)父なる神様の心の満足は、目に見えるものであります。

愛する皆さん、私は今個々人について話しているつもりです。 私も皆さんも、キリストが私のうちにまた皆さんのうちで明らかにされる物差し以外にはクリスチャンであると主張する根拠は正しくないのです。そしてすべての権力や地獄の力はそのことに反対するのです。信者は世にある他の誰よりも反キリストそのものである彼らを非常に怒らせるに違いありません。(Believers have far more to provoke them to un-Christ-likeness than anyone else in the world.) 信者は他の誰よりもはるかに嫌悪感を受け、キリストを裏切らせようとする脅迫感を経験するのです。陰府(よみ)の力は断固としてイエス・キリストの啓示に反対します。全てのことはここから始まるのです。すなわち内に住んでいらっしゃるイエス・キリストの啓示であります。

(今日の箇所は The Centrality and Supremacy of Christ [キリストの中心生と卓越性]の抜粋引用訳です。全体的に訳には自信がありませんが、英文を併記したところは特にそう判断するところです。もし間違っていたら、読者の方で訂正してくださると助かります。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003108.htmlです。)

2011年3月27日日曜日

御霊に導かれること

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(新約聖書 ガラテヤ5:25)

キリスト教と称せられるものは基本的には霊的なことであって、地上的な秩序を求めたり、機構であったりはしないものです。キリスト教のいずこを取って見ても、霊的な方法で、またいのちと啓示の方法によって始められねばならないのです。

本物と偽物との間ではあらゆる点で相違があるものです。何と客観的に物事を見ることと、いのちに参入することとの間には違いがあることでしょうか。まさしく、そこでは、事態について驚き、賞賛、活力、力が見いだされるのです。

あなたはおそらく長年にわたって聖書に書かれている事柄については聖書の中にあるものとして話して来られたでしょう。聖書を信じ、真理だと認めておられました。ところが、長年その生活を続けた後に、急に聖書の真の意味を知ったのです。そしてすべてのことが違ったふうになりました。

以前あなたが話したり説教したり信じていたことは教義に関しては全く真理であり、正しかったりしたのですが 、果たしてそのことはあなたの生活にどんな影響があったでしょうか。ところが今やそれが駄目になったからには姿が変わり、本当の喜び、うれしさ、いのち、充実を味わうようになりました。それが私たちがいのちにより、啓示により事態を真に知るようになることだと言わんとしていることなのです。別の言葉で言えば、聖霊によって物事を知り、見るということです。

もし私たちがこういう意味で霊的になるなら、聖霊が私たちの生活において生き生きと働き、聖霊に従って歩くなら、私たちは不可避的にすべての神様の考えに同調できるようになるのです。主なる神様は人々が神様の完全な考えに同調することを望んでおられます。しかしそのことは外形的な秩序に支配されることをやめ、聖霊にあって神とともに行動することがどんなことかを学んだ人にして初めて可能になるのです。

(今日の記事は Life in the Spirit - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003107.htmlですが。スパークス氏はこの文章の中で、ルカ伝の2:25~35の記事に注目しています。そこに霊的な人として「シメオン」の例示を見ています。この文章を通してさらに理解したいと思われる方はその記事を参照してください。なおこの項目の引用聖書箇所はヨハネ16:12~15、1コリント2:9~16、12:4~14、27です。)

2011年3月26日土曜日

「いのち」を伝える使命とよろこび

烈風下 びくともせずに 光浴び セキレイ一羽 いのち逞し
わたしはまことのぶどうの木です。(新約聖書 ヨハネ15:1)

まことのぶどうの木は、一つのこと、そしてその存在の唯一の目的を実現するものです。だからイエス様はこのたとえをご自分と教会に当てはめられるのです。そして主イエス様のご性質がどのようなものであるかは極めて明白であります。イエス様は全ての人に手を差し伸ばされ、全世界を喜んで受けとめてくださいます。

イエス様は世界のすべての国民がご自分を受け入れるようにと願っておられます。すべての人がイエス様の関心であり、いかなる国民も漏らされることがないのです。イエス様は弟子たちに言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)

けれどもこのこと(※)を客観的に考えることはすべて大変良いことです。私たちのうちのだれにもその責任がなければならないからです。キリストがあなたのうちに、また私のうちにおられる証は何ですか。どのようにして人々は私たちのうちにキリストがおられることを知ることができますか。わずかに一つの方法があるのみです。他の方々は私たちを通していのちを受け取られるだけなのです。私たちがキリストのいのちを他の方々にお伝えするのです。心に飢え渇きをもち必要を感じておられる方々が私たちとの交わりを通して、それらの方々はいのちに触れることができたと感じられるのです。

様々なやり方でそのことを言い表すかもしれませんが、結局はこのことに尽きるのです。「あの男の人は、あの女の人は、私が持っていないものを持っている。それは私が必要としているものだ。私がうすうす感じている何かがある。これこそ私が本当に求めているものだ」それはすべてのクリスチャンの真理であるはずです。なぜならキリストが私たちのうちにおられ、私たちを通して主御自身が広がり、私たちを通して主のいのちが伝えられるからです。

ああ、皆さん、祈りましょう。毎日目をさましてくださるように。「主よ、私を今日どなたかのいのちの通り良き管としてください。主よ、今日どなたかに私を通してあなたのいのちを伝えさせてください。私のいるところどこででもいのちを伝えることができますように」

主はあなたにも私にもこれ以外のいかなる計画も持っておられません。私たちは多くのことを手がけるかもしれません。しかし、私たちがぶどうの木につながっているなら、私たちには実を結ぶ以外のどんな良いこともないのです。それが他の方々にいのちをお伝えするということなのです。私たちは何かを掛ける木かぎでさえありません。またどなたかがまっすぐ立ち上がることを手助けする杖でもありません。そうなのです。神様は私たちが実を生み出し、いのちを伝える以外の御用にはお用いにならないのです。

(今日の文章は The On-High Calling - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003106.htmlですが、※の指摘している「このこと」とは文章が大幅にカットされていて、この文章では文意が通じなくなっています。カットされている部分には、サタンが主の働きに挑戦し、各地で福音が広められることを恐れ、妨害がなされていること、たとえば中国やアフリカでの迫害が指摘され、一方では「教会」が無力化して福音のいのちに生きていない、これもサタンの喜ぶことなのだと述べていますので、それらのことを直接には指していると思われます。参考までにそれらを述べる際に根拠としている彼の引用している聖書箇所を書いておきます。ヨハネ15章、詩篇80:8,14、イザヤ5:1,2、エレミヤ2:21,6:9、エゼキエル15:1~6)

2011年3月25日金曜日

十字架こそすべての答え

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。(新約聖書 ヨハネ15:5)

生活の根底で主イエス様との生き生きとしたつながりがあり、聖霊によって徹底的にかつ絶えず生きることが求められています。十字架は簡潔にそのことが秩序だと言明します。たとえ宗教的であり、良き動機からなされ、良い意図を持っていても、生まれながらの人から出て来るもの(それは必ずしも神に反抗したり、意識的に神に敵意をもったりすることを意味していないで、人の生来の性質が現れているのですが、この場合にも)十字架は完全な秩序が無視されていることを言明するのです。

神様はそのことを法的に裁かれ、禁止されたのです。主イエス様の十字架にあって神様は究極的には次のように言われたのです。「あなたがたは生まれながらの性質によってわたしに仕えることはできない、わたしの栄光のためにいかなる実を結ぶこともあり得ない。わたしに仕えるために出てゆき、働き、労し、死ぬほど神経を使うことはできるが、あなた自身から出るものなら、たとえどんなに生来の力でやってみても、わたしのために実を結ぶことがあり得ないということはいつまでも変わらない真理なのだ」と。

神の目的を貫徹することができ、いのちたり得るもの(すなわち永遠の、神にあずかる、天来のいのち)はただ聖霊によるしかないのです。

このことがどんなにすべてのことに浸透してますか。そのことがどんなにすべてのものの吟味・分析になっていますか。たとえば、私たちが言葉に出すことについて、「そのことは聖霊にあって話されたことか」と絶えず問うてみることです。

しかし、「私は良い意図を持っていたか、主のためにやったのか」と自らに問うことは十分ではありません。そうではなく、「そのことは聖霊にあって言われたか、なされたか、それとも私がやったか」と問うことです。動機や意図を問うのでなく、自らが何の力によってなしたかを問うことであります。

私たちは日毎に自らの生活が聖霊に支配されねばならないことを認識せねばなりません。それは、私たちは自らの意志によるものが今に至るまでずっと支配してきたことを知って、そのことについて神様の前に正直であらねば(自分の罪を告白しなければ)ならないことを意味しているのです。

(今日の箇所は The Battle For Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003105.htmlが原文です。最初の一行の文章だけは、原文の一行目の意味が不鮮明になることを恐れ、数行前の一文を訳し追加してあります。スパークス氏の文章を日々読ませていただき、聖書を全体として読む大切さを教えられます。何よりも聖書が「いのちの書」であることを日毎に確信させられます。またこの「いのちを求めての闘い」とも訳せる題名の文章は全部で7章あります。一読をお勧めします。)

2011年3月24日木曜日

堅忍不抜の信仰

鷺一羽 足を抜き差し 餌を求め 歩く水底 堅忍不抜
キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし(新約聖書 コロサイ2:7)

(約束の)土地に入ったアブラハム ・・・しかしまさしく神から彼に与えられた約束は拒否されるかのように見えます。アブラハムが誤解したのですか。私たちは時々主に当惑させられないでしょうか。主の道が通り過ぎて見いだせなくなっていないですか。

すべて大変混乱しているように見えます。しかし一度信仰が耐え忍ぶと、ある日私たちは主を賛美するのです。その後、私たちはそうなった理由を知るのです。「義人の道は・・・いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)のです。状況ではない、「道」があることを記憶にとどめましょう。

これらの神様が示される道の不可思議さには神様のいくつかの隠された奥義がふくまれています。それらの奥義は主の英知と力を前面に示す別の機会ではないでしょうか。すべてが駄目になるように見え、大変大きな対立や大変不慣れな体験や状況に対する鍵がないと、私たちは誘惑に駆られ、約束は本当に神様から来たものか疑問を持ちます。万事が私たちの期待したものと反対であり、私たちは自分たちが全部間違っているのだろうかと思い始めます。

ちょうどその時が、私たちが主にあってしっかり立ち、信仰における堅忍不抜を保つ時なのです。結局のところ私たちの体験は随分似通っているものです。当惑させられ、明らかな矛盾があり、対立があります。経験のかたちは様々ですが、私たちのすべてがあれやこれやの方法を取ります。しかし「彼は信仰に堅く立つのです」

このことはどのようにして私たちのうちに確かになるのでしょうか。まさしくそれは事態が事態として、助けられる手だてもなく、私たち自身も投げ出さざるを得ず、主を仰ぎ見るしかない時、その時が私たちをとおして主が明らかになる時です。今あなたは神様の奥義を知るところまでやって来ています。今こそ主の栄光があらわされ、主の英知が示され、あなたの信仰が確立される時なのです。それが、すべて堅忍不抜の信仰の内容なのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003104.htmlです。今日も朝、夕と地震がありました。今のところ地震のない西日本の地方の方には中々わかりにくいのではないでしょうか。それにしてもこんなに頻発する地震は初めてじゃないでしょうか。水路に抜き足差し足行く鷺に思わずカメラを向けました。彼に取っての大地は水底でしょう。彼の信頼は揺るがざる大地でしょう。「堅忍不抜」と今では聞き慣れない用語を多用しましたが、英文ではenduranceです。)

2011年3月23日水曜日

すべてのすべてとなられた主イエス様

満開の 椿教える 刹那の美 イエスキリスト 花愛された
キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(新約聖書 コロサイ3:11)

愛する皆さん、十字架の目的は主イエス様がすべてであり、すべてのうちにおられることを私たちにわからせるためになされたのです。だから次のことはまちがっているでしょうか。つまり主イエス様が私たちに働きかけ、十字架を通してイエス様の死と葬りにあずかるようにしてくださった方法のゆえに、私たちが以前決して知る由もなかった方法で、今はイエス様を知っているということ、がです。(いや、まちがっていないでしょう)主が私たちに対して、また私たちの心のうちに今までよりもはるかに親しいお方となってくださったのはその道(十字架)によるのではないでしょうか。

主イエス様が私たちのうちに、また私たちにとって大きくなられるのは十字架の道によってなのです。私たちは私たちの最大の敵が自分自身であり、肉にあることをもっとも熟知しています。この肉なるものは私たちに休息を与えません。平和も満足も与えません。肉のうちには喜びがないのです。肉は私たちの生活のあらゆるところで私たちから生きる喜びを奪うことに専念し、絶えずそのことをみせびらかすのです。

肉が処理されるためにどんなことがあるのでしょうか。いいでしょうか、十字架のうちにいること、また十字架によって私たちは自分自身から解放されるのです。私たちの罪からだけでなく、私たち自身からもなのです。私たちは自分自身から解放されて、キリストの中に移されます。 キリストが私たちよりもはるかに大きくなるのです。それは痛みを伴いますが、祝福された結果になります。

私たちの間にあって、もしこの線に沿って最大の苦難を経験された方がおられるなら、私は確信するのですが、苦難を通して主イエス様を知り、その豊かさを経験することになった、そしてそのことはあらゆる苦難にまさって価値あるものだったと証言してくださることでしょう。だから、十字架によって、私たちに対して、また私たちのうちに主が働かれるのは、主イエス様に私たちが心を明け渡すようにされていることなのです。それが神のお考えのうちにあることであります。

( 今日の箇所は Christ - All, and In All の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003103.htmlです。昨晩から今朝にかけ、幾度地震があったことでしょう。自然界、特にこの大地がこんなにもろいものだとは。主イエス様は浅はかな私の思いをどのように思っておられるのでしょう。長い長い蕾の中でじっと開花に備えていた椿が次々と花を咲かせています。「あなたがたのうちのだれが心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」ルカ12:25~26

2011年3月22日火曜日

主よ、あなたの前に荷を降ろします!

沈黙を破り木蓮開きたり空に祈りの声あげるごと 後藤瑞義
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(新約聖書 マタイ11:28)

このことは何を意味していたのでしょうか。律法の重荷が人々の肩にありました。実にそれは人々にとって重いものでした。パリサイ人はモーセの律法に2000以上の解釈を施し、言いました。「モーセの律法は決して十戒だけを守って良いとしたのではない。2000(の規律を)守らねばならない」彼らの人間生活のあらゆる面でこの決まりが適用されない点は一つもなく、彼らの生活はそれゆえに困難を極めました。

そして、このすべては安息日に集中していたのです。「安息日には床を敷いてはいけない。安息日には床を移してもいけない。安息日には火をかきたててもいけない。安息日には何事もしてはいけない。三マイル以上歩くことさえいけない。」彼らの生活には2000の規則があったのです。彼らが毎日、特に安息日に交わる一つの標語は「あなたはこれこれのことをしてはいけない」ということでした。

(ヨハネ5:1~18で)一体何が起こったのでしょうか。イエス様は安息日はご自身のものであるとなさいました。(それは)安息日はもはや一週間のうちの一日でなく、またイエス様が神の人であること(を意味していました)。(もしセブンスデー・アドベンティストの方がその場に居合わせたら、彼らの全体系も5分間で没したことでしょう)

そうなのです。イエス様が神の安息なのです。イエス様は神様の御わざの目的であり、イエス様にあって神様は休息にお入りになったのです。これがヘブル4:9の「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」という意味です。安息日は一週間の中の一日でもあるいはカレンダー上の日でもなく、神の人、神の御子の日なのです。

イエス様にあって私たちは休息を得るのです。そして私たちの束縛であったものが今や私たちの召使いになったのです。常に闘いの対象であったものは今やイエス様にあって勝利に変わったのです。そうなんです。イエス様が安息日なのです。そしてもし私たちがイエス様にあって生活するなら、安息日は粗末にされないのです。私たちの魂にとって毎日が安息の日々であるのです。嗚呼、これは主イエス様がなしてくださった、何と力あるできごとでしょうか。

(今日の箇所は Discipleship In The School Of Christ - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003102.htmlです。相変わらず余震が絶えない東日本です。しかし、冒頭のみことばは万古不易のみことばです。このお方に全てをおゆだねしたいです。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7

2011年3月21日月曜日

主を恐れる心の必要性

春来いと ラッパ水仙 さんしゅゆ 黄色ふんだん 絞り出す神
こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(新約聖書 ヘブル4:1)

新約聖書の書き手のように、神の民の霊的生活に対して本当に重荷を覚え、責任感のある人々にとって、もっとも心を痛めることの一つは、主とともにまっすぐ歩む約束をした、かなり多くの人々が何らかの脱線に会い、神様が意図しておられることとは別のものや、はるかに少ししかないものへと向きを変えてゆくことです。それは必ずしも罪や世に対してでなく、彼らが一時的にかなり満足する方に向かうということです。

その結果、霊的成長が抑えられる転換が明らかになり、彼らが後退し、停止してしまい、「神様に全面的に相談する 」かわりに別のことで心が一杯になります。彼らの「新発見」や「光」や「導き」は、彼らが話すように、何らかの緊張をなくしたり、問題の解決であったり、自己実現への道が開かれることの約束であったり、圧迫感からの逃避からだと言うのですが、それらはめずらしさや魅惑的なことがなくなる時、いずれも「ニセの飲み水」であったことが明らかになるのです。それは収穫を見ないうちに落ちてしまうエリコの果物を生産しているようなものです。

神様の永遠のご計画の道にこのような悲劇がばらまかれているのです。聖書は、新旧両聖書とも多くの人々の悲しい話を記録しています。それらの人々は道を見失い、脇道にそれ、パウロのことばや懸念を用いるならば、「上に召してくださる神の栄冠」(ピリピ3:14)を手に出来なかったのです。新約聖書はその大部分が、こうなる可能性が存しますので、また絶えずひそんでくる危険性が悲劇的な不測の事態を招きますので、警告、勧告、奨励や懇願で占められているのです。

ヘブル人への手紙には七個になる文脈で小さなことばですが「・・・のことがないように( lest)」ということばが霊的経験の中での最も恐ろしい事柄のいくつかとつながっており、長い(失敗の)歴史の理解をもたらします。私たちが目的とするのはその歴史を跡づけたり、多方面の文脈の一覧を設けたりする不可能な仕事をしようとしているのではありません。私たちが何をさておいてもしなければならないことは一般的な安全の原則を明確に述べることであり、それとの関連で一二の危険性の例示をすることにあるのです。※

危険や誘惑は、抜け目なく巧妙に「えさ」に応じてやってくることでしょう。最も霊的である人が最も霊的なように見えるものを持ち、出現させられるでしょう。私たちの際立った気質が私たちに固有の危険となることでしょう。 (だから)感情、嗜好、議論や持って生まれた魅力によるのでなく、つねに(安全の)原則によって支配される必要があります。知性による一時しのぎ、情緒的な興奮、活動に伴う充足感は疑われねばなりません。一つの問いが重要視されねばなりません。一体これはどこに導くのか。それはどうしてもなくてはならないものなのか、もともと神様の卓越したご計画と関わりがあるのだろうか、という問いであります。

(今日の箇所は The Danger of Coming Short 「はいれなくなる危険性」の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003101.htmlです。なお※以下は本文では約1頁にわたる詳細な安全の原則が述べられていますが、今日の箇所ではいっさい省略されていて、次の最後の文節につながっています。さらにその後ろに以前2月15日に「かき乱す者たちの存在」の題名で訳出しているものが続くことになります。これも関心のある方はそちらの方もお読みくだされば感謝です。さらに意味が鮮明になることでしょう。)

2011年3月20日日曜日

われは目しい、耳しいなり

ムクドリの 人の気配を 全身に 受け飛び立つか かくあれよと神  
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(新約聖書 黙示3:22)

現代の著しい特徴は際立ったメッセージを持つ声が余りにも少ないということです。時代に対して明確で権威ある言葉が痛ましくも欠けています。福音を上手に伝える説教者はたくさんいますし、信仰の生き生きとした真理を身につけた闘士を私たちが欠いているわけではないのですが、悲しいことに、神様との交わりを続け、(その結果)特別鍛えられたことから生ずる命令を受けて「かく主は言われる」と語る預言者に欠けているということです。

なぜそうなのでしょうか。この宣教をたずさえるかなり多くの方が組織の中で余りにも多くの役割を果たしていることがあるのではないでしょうか。説教者を専門家としてかなり多く備える組織は、結果的に説教があらかじめ確立された宗教的な秩序や計画を準備するという需給関係に(支配されるように)なっているのです。説教だけでなく、今日私たちが組織化された形態と捉える「キリスト教」の全組織や活動に(たずさわねばならないのです)

「主のことばに迫られて」ということが預言の根本にあったり、「主の御手が私の上にあった」と言うことができた時にのみ、話すという自由や派遣(の意識)がないのであります。現代の秩序は人に絶えず話すことを求めます。それゆえに彼は何かをつかまねばならないのです。そしてこの必要性は神様が私たちの計画を提案され、その計画をかなえるように求められねばならない(実は神様はそうはされないのですが)か、説教者が絶えず起こって来る事態に何かをなさねばならないのです。

これは有害な組織でして、何ほどかの人に門戸を開き、神からのものでなく、人からのものであるものを危険かつ有害に押しつけてしまいます。この方法のもっとも深刻な観点は結果的に声、声、声、つまり声の混乱状態に陥り、時代に対する明確な神の言明をともなった意義ある声ではないということです。

あまりにもしばしばそれは結果として人々が説教をするための観点や、主題に縛られて聞いたり読んだりするようになり、物事の価値が主題の示唆することによって判断されるのです。その人は敬虔な人でしょう。またそのメッセージたるや真理でしょう。しかしこれ以上のものが(メッセージには要求されて)あるのです。そのメッセージは神様の時代を指し示すご目的にただちに関連しているメッセージでしょうか。

自ら知り、真理を確信していることを伝える多くの善良な方々がいます。しかし同時に主の子どもたちの多くは腹を空かせ、(霊的な)食べ物を与えられていないのです。今日主の民の間に存する(霊的)食べ物の問題は極めて切実なものがあります。多かれ少なかれ良き宣教がその必要を満たしていないのです。(残念ながら)知ることに関して成長はありますが、真理や奉仕を満たすもの、すなわち今に対する主のおことば、今私たちのいるところ、そして神のご計画の中で今の現在時点で妥当することとかけ離れているのです。

このことはもう一度この章の最初のことに立ち戻ることを意味します。神様は言わねばならないことをお持ちなのです。ですが、そのことは私たちを次のように導いてくれるのです。「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。」(ゼカリヤ4:1)

ここに私たちが神様がおっしゃらねばならないことを聞いて目をさまされる必要性があるのです。黙示録で「耳のある者は聞きなさい」(黙示2・7他)とあります。ラオデキヤ教会(終わりの時代を代表する)に向けては「わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3・18)とあります。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた」(黙示1・12)とヨハネは言いました。神様は語っておられます。おっしゃらなければならないことをお持ちなのであります。しかし(それを知るにはパウロが私たちのために祈っているように)「神を知るための知恵と啓示の御霊(が与えられれば)、あなたがたの心の目がはっきり見えるように」(エペソ1・17~18)なるにちがいありません。

( 今日の箇所は The Candlestick All of Gold の抜粋引用訳です。以前1月29日の「啓示に身を置きなさい」という題で訳させていただいたものの前に書かれている文章です。初めて読まれる方はこの記事をこれに続いて読まれると、より意味が鮮明になることでしょう。原文はいつも通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003100.htmlです。今日は滋賀県の近江八幡で礼拝を持たせていただきましたが、震災・原発の被害のショックは関西のこの地の主を信ずる礼拝者お一人お一人の中に充満していました。あわせて震災の中で神も仏もいるものかと絶望しているお一人お一人のまことの救いのために役立つことをさせてくださいという思いが礼拝者一人一人の祈りを貫いていました。神様は私たちを「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」エペソ1:4たとあります。そのことに何の変更もないのですから、文中スパークス氏が再三強調しているように神のことばをもっともっと真剣に聞く者でありたいと思いながら、再び関東まで帰って参りました。)

2011年3月19日土曜日

目が見えるようにしてください

わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(新約聖書 黙示3:18)

私たちは自分の生活において見えると思い、知っていると思っている全ての事柄を点検しなければなりません。あなたも私も私たちが霊的知識だと思うものをたくさん持っているかもしれません。すべての教義も心得ていますし、真理を体得していますから(と言うかもしれません)。福音的な教義の指針を持つことは出来ます。でもその結果はどうですか。

愛する皆さん。もし私たちが変えられていなければ、それは真に霊的な意味から言えば見えることではないのです。 そうなのです。見えるということは変えられるということです。もしそうでなければそれは見えることではないのです。私たちがそれらすべてのものが剥ぎ取られ、ちょっとした違いを生ずることが本当に見えるところまでとことん連れて行かれるならはるかに良いでしょう。

私たちはこのことに関して神様に対して大変正直であらねばなりません。私たちは、その90パーセントが何の重要性もない山のような全知識よりは、100パーセントである実にわずかなものをもっと早く持ちたくないですか。私たちは主に霊的いのちを越えて前進することから守っていただくように求めねばなりません。前進とは知識を伴うこと、知識につけ込んでくることを私は言っているのです。

あなたは私の言わんとすることがわかるでしょう。本当に見えることは、パウロが言うには、変えられることなのです。そして変えられることは主である御霊によって見るように見ることなのです。だから私たちは見えるように祈りたいです。

遅すぎて霊的視力を得られないということは決してありません。たとえ見えなくても、またどんなにその(見えない)期間が長くても、私たちが主に対して本当に真剣であるならばです。けれども、このことは神様に対して正直であらねばならないことだということを忘れてはいけません。

主イエス様はナタナエルに驚くべきことを言われました。ナタナエルは二重の盲目になりかねない危険性にありました。彼が一般的な偏見を言い表してしまった瞬間、彼は大変危険なところにいたのです。彼は言いました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」それは一般的な偏見です。偏見が多くの男女から神様のより完全な考えを奪って来たのです。偏見は多くの形態を取ります。用心しましょう。

けれどもナタナエルは救われたのです。主イエス様はおっしゃいました。 「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(ヨハネ1:51)「いまに(これから先)」とは主がおっしゃるのはもちろん御霊の日であります。「主である御霊によって」ナタナエルは見えるようになったのでありました。そうです。彼は危険なところにいました。しかし彼は逃れたのです。

もしあなたが偏見によって危険地帯にいるなら、注意してください。そして偏見を捨てて心を開いてください。主に対してヤコブ的(自己中心的)なもののない、ずるさのない、心を開いた一人のイスラエル人(ナタナエル)のようでありなさい。そうすればあなたもきっと見えるようになるでしょう。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 2  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003099.htmlです。 ナタナエルの記事は私にとり一見わかりにくいところでした。でも主イエス様が私たちの思いを全て知っておられることに留まる時この箇所は途端に魅力的なものになりました。私たちそれぞれが、教会に行っていようが、行っていなかろうが、そんなことよりも、主が天から私たちの一挙手一投足をすべてご存知だということに気づくなら、私たちの生き方は随分変わるのではないでしょうか。だから震災も原発の問題も主の御手にすべては握られてのことではないのでしょうか。そのお方に祈ることが「目が開く」ということではないでしょうか。なお、今日の箇所は1/27の「私は見える」という題の箇所と近接しているものです。)

2011年3月18日金曜日

何ゆえの揺り動かしか

今年も花を咲かせた馬酔木(あせび)
しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々が求めるようになろう※。(旧約聖書 ハガイ2:6~7)

そのことは考えることすら恐ろしいことのように思われます。しかし私たちがいわゆる「キリスト教」というものに言及する時、広範囲にわたる多数の自称・クリスチャンと言われる人々は完全にまちがった立場に立っており、その仕組みそのものが大変、大がかりに地上的、伝統的、形式的でありかつ霊的でないものになっていますから、この世界的な揺り動かしが全く必要であり、最終的にはその揺り動かしは正当なものと(認めないわけにはいかなく)なるでしょう。もし論を進めるなら、「キリスト教」と呼ばれるものは本当はキリストの最大の敵であることを示すことになるのです。

それは古くなり貧弱になっていたり、あるいは悪くなっていたりする仕組みをもっと別の良いものに置き換えることではないことだと知らされることでしょう。何人かの人々はそれは全面的に秩序や方法やそれに形式の問題であり、もし「新約聖書」の形や教会の秩序に立ち返るならばすべてはうまく行くだろうと思っているようです。

(しかし)事実は定められた事柄が新約聖書の教会を特徴づけることはあったとしても、新約聖書はそれに従えば教会が存立したり形成されるような完全な模範を示すものではありません。新約聖書には教会の青写真はありません。新約聖書の教会を(形として)形成しようとすることは、他のものと同様に別の仕組みを正当とし、分派した、死んだものを生み出すに過ぎません。

新約聖書のような教会はいのちがあふれる有機体であります。教会のいのち自身は信者そのものの存在のうちに刻印されるキリストの十字架から湧き出てくるものです。(従って)もし信者が十字架を経験した人々でないなら、新約聖書の教会の本当の現われとはなり得ないのであります。

(今日の箇所は Things Which Will Be Shaken の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003098.htmlですが、誤訳の恐れを覚えるところがあります。読者の方で指摘し、訂正してくだされば感謝です。引用聖句は英国欽定訳だと思いますが、※の原文はThey shall come to the Desire of All Nationsです。これもご検討ください。なお新約聖書ヘブル人への手紙には「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けている・・・」ヘブル12:26~28 とあります。)

2011年3月17日木曜日

キリストにある永遠のいのち

暗闇を 照らす蝋燭 罹災者 のうめき叫び 聞き輝けり
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新約聖書 ローマ6:5)

私は皆さんに思い起こしていただきたいのです。このつぎあわされるということの本質はまことに私たちが大変慣れ親しんでいることであるということです。「 キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じように」これは使徒のことばです。

「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」非常にしばしば敵(がやること)は私たちがもっと深くキリストの死につぎ合わされるための道具(にすぎないということ)であります。彼の脅迫、攻撃、告発すべてのものがそうなんです。

主は悪の源泉ではありませんが、主が悪をお許しになっているのです。非常にしばしば私たちの心は叫びます「なぜ、主は私たちの生活にそんなことをいつまでも許されたのですか」それほど深刻で暗い経過をたどってきた、そのことを指してです。

なぜ主は許されたのでしょうか。主はそれを妨げようと思えば出来たことでしょう。いいでしょうか。私たちは主イエス様の死につぎ合わされたのです。私たちは自身の目的から言って、かつてよりももっと多くのものを授けられたのです。そうです。だから私たちがかつて主を知っていたよりももっと大きな尺度で主を知り、今度は悪魔が私たちを揺り動かすことがそれほど容易でないところへと招かれるためなのです。

それがもっと深い死の経験をなさった神様の支配的な方法であります。「 キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じように」皆さんは初めそこにつぎ合わされなさいましたか。十字架におかかりになったキリストのうちに根ざしなさいましたか。それともあなたは何か(別のもの)に愛着している者のお一人ですか。あなたは(果たして、キリストに)根を下ろしていらっしゃいますか。

もっと深く根を下ろす必要がある時、それは深く掘り下げられることであり、その要点は最も確かなこととして立つための忍耐、持続、能力が導かれつつあること、ああー、ですが、さらに多くの実が実ることであることを(是非)覚えていただきたいのです。

(今日の箇所は Rooted and Grounded の抜粋引用訳です。 原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003097.htmlです。昨晩は初めて停電の洗礼を当地でも経験しました。停電解消後のNHKTVで見た被災者の方々の苦悩を思うとき、もはや言うべき言葉を失し、家族中、呆然と画面を見射るばかりでした。しかし、聖書はそんなわれらに主イエス様の十字架の死を覚えなさいと繰り返し「神の愛」を語っています。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」「恵みが、私たちの主イエス・キリストにより義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させる」ローマ5:9、21 )

2011年3月16日水曜日

造り主におゆだねします

ヒヤシンス 立ちたる姿 りりしいぞ
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(新約聖書 コロサイ3:9~10)

キリストご自身は、この地上におられた時、人々に(救いの)戸口から入ったり、まっすぐで狭い道に入る時、困惑するということを必ず知らされました。現に人々は困惑したのです。今そのことを言うのは大変恐ろしいことのように聞こえますが、特に戸の内側に入ってまだ日の浅い信者にとってですが、しかしそれは完全にはっきりしていることであります。主イエス様は決して誰であろうとだまそうとはなさらなかったのです。全然それとは違いました。

主イエス様は人々に、当時示されたように、「主に従う」ことは困難と苦しみと迫害と試みに、そして一生涯、それらに巻き込まれることだということを知らされたのです。ここには犠牲があります。大変な犠牲です。そして、代償があるということ、というのは疑いもなくこの生活には代償があり、永遠にとてつもない代償があることになりますが、これは生まれながらの(新生していない)人にとってはいかなる方法によっても容易ではないと私たちは知るのです。

この聖霊の働きは厳しいもので肉なる人の性質にとっては極めて試みのあることです。ただ誤解しないでください。聖霊ご自身がこの働きを完遂されるのに全精力を費やされるということであります。本当にその通りなのです。だから主イエス様は私たちを置き去りにされなかったということは疑う余地のないことです。

しかし注意してください。 嬉しいことに、使徒パウロはそのことを次のように指摘しているのです。それはまことに経験上真実であるからです。それは新しい人とは更新されつつある人だということです。記憶にとどめてください。最初に「脱ぎ捨てること」と「着る」ことの的確で厳密な処置がありましたが、今や継続されるその働きは、わずか一日の一瞬の一回きりの行為ではなく、私たちのうちに継続するものだということです。

新しい人は日々更新されるのであります。そしてその過程は最後まで続くものであります。私たちがもうこれ以上続けることが認められなくなるまでは、すなわち終止符を打つに至るまでは止むことがないのです。

(今日の箇所は God's Supreme Interest in Man - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003096.htmlです。スパークス氏はこのコロサイ人の手紙の聖句の中には聖霊なる神様の名前が特に書き留められていないが、この人を造り主の形に似せて造り上げる働きこそ聖霊なる神様の働きであると言及しています。一方、「古い人」の例として、サウル王を、「新しい人」の例としてダビデ王をそれぞれ旧約聖書中のサムエル記を資料としてあげています。そして二人の差は主の御心を喜んで行おうとするか、行おうとしないかの違いであったと指摘しています。)

2011年3月15日火曜日

御子に求めよう

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(新約聖書 コロサイ1:19)

私がこれから申し上げることは、言うことも難しいことですが、皆さんには受け入れがたいことかもしれません。しかしこのようなことどもはどうしても言わなければなりません。このことを考えると一日大きな驚きがあることでしょう。

主の働きや主の力には途方もない活力、活動、機構、熱意がみなぎっています。それは全く大きなものを生み出し、全く豊富なものをもたらすようにみえます。そのことは私たちが裁断することでなく、私たちは原理を放棄し認識することであり、いやむしろ神によって定められている原理を認識することです。

最終的にあらゆる働き、あらゆる奉仕、あらゆる活動がバランスよく考えられ、いつまでも続くものかそれとも消え去るものかを決める時、単に神のための人の力であったものは全てなくなることでしょう。主のために単に人が企てたに過ぎないこともすべて消え去ります。また人自身から出て来るいかなるやり方であっても、それがたとえ神様に仕えることであったとしても、そのすべてもまた消え去ることでしょう。

キリストの活力、キリストの英知、キリストの力であったものだけが残るのです。神様はあなたの力や私の力を必要とはされません。そうではなく神様が求めておられるのは私たちがキリストの力を用いるということです。神様はご自身のしるしを人から出るいかなるものの上にも置くことができないのであります。

神様のしるしはただ御子から出るものにのみあらわれます。私たちは事柄が大きく広がりを持ち、神のための大きな働きのようにみえ、必ずそうであるからという理由でそう言うのではいけません。私たちが全き確信を持たなければならないことは、その事柄は人の勢いや組織や機構の力や神のためにする人間の熱情や活力によってもまた計画によっても実現されないということです。そうではなく、そのことは、聖霊によって力に満たされることであり、いのちであり力であるキリストご自身であるということです。

人間の性質からすると活力やこの種の全ての事柄が機動力であり、私たちは終わりには消えてゆくものがたくさんあることを確信するでしょう。そのことは神をあらわすと主張した事柄の歴史を振り返ると、明らかになるでしょう。

このことを言う目的は何かにちょっと疑惑の雲や疑問を投げかけることにあるのではなく、この真理、基礎的な真理を強調することにあります。最終的にこの世界にはキリストであること以外の何物も残りません。だから私たちは神の究極的な計画はキリストと結びつけられていて、キリストの内にあり、それがキリストであると認めねばならないのであります。

(今日の記事も Christ in You の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003074.htmlです。訳の怪しげなところがたくさんあります。一方でとどまることを知らない東北関東大震災の被害の惨状に心を痛め、考えることが宙を舞いそうな時に、みことばの真理があることだけが私たちの希望です。友人は東北の知人に「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。」2コリント5:1を励ましのみことばとして贈ったそうです。今日のベックさんの火曜の学びでは、56年前に那珂湊で用意されたメッセージが引き続いて語られました。この日曜日には大洗で集いが持たれる予定でしたが、震災のためにできませんでした。ベックさんの引用聖句はローマ8:18、ヘブル1:2、2:5~11、3:1、7~8、12:5~6、黙示録12:5などでした。毅然として主イエス様の恵み・支配が微動だにすることなく語られました。同胞の方々に様々な人の思いを越えて支配権を持っておられる唯一のいのちの与え主である、まことの主イエス・キリスト様を知っていただきたい思いで一杯になりました。)

2011年3月14日月曜日

子であることの栄光

鳥は空を飛ぶ 昨日庭の「さんしゅゆ」を啄みにやって来たひよどり
父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる。(新約聖書 ヨハネ5:20)

神様と完全に一つとなっている人々だけが神を代理できるのです。たとえ私たちが、自らをどのように呼ぼうとも、また主のためになす働きがどのように偉大であろうとも神様はそのことを考慮なさいません。神様のところに来て次のように言ったとしても役に立ちません。

「主よ。あなたは私がこの働きに従事していることをご存知でしょう。だから私はあなたに助けてもらいたいのです」その言い分は神様が彼を助けねばならない理由にはなりません。神様は心から交わりを持っている神の子どもたちを助け、その彼らの働きだけを助けられるのです。「公式」にはその立場にない人であっても、公式に宣教師やその地位にあるたくさんの人々よりも主にとってはるかに有用なのであります。

重要なことは、私たちの霊的な知識や公的に人が承認した宣教ではなく、私たちが神様と隠れたところで交わりを持っているかどうかということであります。神様は私たちをご自身に仕えるのにふさわしく霊的に整え、仕事でなく子であることを支持してくださるのです。もし私たちが神様との交わりに気を配っているなら、神様は私たちのその立場を見られます。

神様はイスラエルを神の初子と呼ばれ、子であるゆえにイスラエル人を助けられました。従ってイスラエルは諸国民の間にあって重要な立場を占めることができました。イスラエルは地にあって神の証のために選ばれた器であったのです。けれども初子として神とともに進めなくなる時がやってきました。神様との心からする交わりが、単なる表面的な形のものになり、その結果、神様が神の民から引き出し、捕囚に送り込まなければならなくなったからです。

イスラエルが主に向かって、「なぜあなたは私たちをこんなふうにあつかわれるのですか」とか「私たちは諸国民の中であなたを代表する者でなかったのですか」という不平を言ったので、無用になったのでしょう。それに対して神様のお答えは「公的な立場はわたしにとって何の関係もありません。わたしはあなたがわたしとの持つ関係が正しくない限り、またあなたが子としての立場を重要視していない限り、あなたを助けることができません」というものであったでしょう。

あなたは神の子である私たちの立場や召しは子であることと関係があることがわかるでしょう。 主イエス様はまさしくその理由ゆえに子であることを強調されるのです。主イエス様は父は御子がこの地上で実現するために来た宣教を愛されるとは決して言われませんでした。けれども「父は子を愛された」と言われました。地位と召しは子であることの上に基礎づけられておらねばならないのです。子たることを抜きにしては、地位も召しも神の前には何の価値もないのです。

(今日は Christ Our All - Chapter 9 の抜粋引用訳です。)

2011年3月12日土曜日

父なる神様を恐れ、従うまことの平安

庭のクリスマス・ローズ 2011.3.10
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。(新約聖書 ヨハネ17:21)

それでは、キリストとの結びつきとはどんなこと(を言うの)ですか。それは新しく創造された方である主、つまり新しく創造された子である主イエス様との結びつきです。いのちの御霊により新しく造られた者のいのちを生きる主との結びつきです。

私たちの主題はキリストとの結びつきの性質と意義にあります。とこしえの御霊による新創造のうちにある新しく創造された人の子である主との結びつきです。その結びつきの意義は何でしょうか。それはそのような結びつきによって初めて神様の働きがなされるのだということです。父なる神様との関わりの中で主が支配されることがそのまま私たちを支配するのです。何事もこの結びつきを覚えることなしにはなされません。

(だから)キリストとの結びつきは神のために行動を起こすことや、また神のために約束することではなく、 ただ良き意志※があることであります。私たちが(自分の考えで)主の栄光のためになさねばならないと理解することが奉仕の基準ではありません。

多くのことが、神のためになされねばならないと判断される時、単純だが、正直で誠実な心の判断によって手がけられます。たとえば悲劇的な事態が行動を求めるのです。私たちはその事態に対応する手段を持っていると、それを主のために行うのです。そんな風にして広範囲にして様々な企てがその基盤の上で着手されます。ところが主イエス様はこのヨハネ5章で、そうではないとおっしゃいます。

主が言われる通り、決してそうではないのです。主は事態の目に見える必要によって支配されません。主はご自身の上におこる事柄の衝撃によって何か手がければならないとする考えに支配されるお方ではありません。主にとっては(父なる)神様がなさること、特定の時に神様がなされることが問題なのです。

一つの目的を持って神様は様々な時に様々なことをなされます。時々違った強調点がありますが、キリストと本当につながっている人はその特別な時にキリストが直接事をなしてくださることに支配されねばなりません。「父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」(ヨハネ5:19)神様の働きとの関わりで霊的に認識するすべての問題はこのつながりによって結ばれているのです。

神様がなさることが問題であり、神様が目的を実現されるためにキリストにあって主とともに(私たちが)いのちのつながりをもっているかどうかが問題であるのです。

(今日の訳出は The Meaning of Divine Life - Chapter 3 抜粋引用訳であるが、地震発生とともに頻発する余震が続いており、どうしても気になり訳出に手間取り、日を越えてしまった。文章そのものは主イエス様が決して自ら行動されるお方でなく、いつも父なる神様に従われたように私たちも主イエス様のお言葉に信頼し従うことが主題となっていた。※は原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003070.htmlによるとIt is not a matter of action, or of understanding for God, however well intentionedとなっているが、intentionの内容がはっきりしない。数頁前に「主は私たちができないことをするようにと期待されているのではありません、そして私たちは自分の力で決して生きられないのです。だから、主が求められていることは私たちの態度・心持ちであり、その心持ちとは主を信頼することであります。それがすべての始まりです」という箇所がある。このお方にはいのちがあり、さらに子なるイエス様には主を受け入れる者にいのちを与える力が、父なる神様によって与えられている。地震の被害に遭われたお一人お一人のうちに主イエス様のこの上から与えられるいのちの慰めが与えられますようにとお祈りします。)

2011年3月10日木曜日

わたしはあるというお方(出エジプト3:14)

自己中心(ジコチュウ)と自分を責めて三日月の鋭き先を寂しみている(後藤瑞義)
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(新約聖書 ヨハネ6:35)

「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14)「わたしはまことのぶどうの木です」(ヨハネ 15:1)「わたしは、よみがえりです。いのちです」(ヨハネ11:25)ここには主がどんなお方であるかを明らかにする偉大な、わたしは何々であるが続きます。そしてその場合、その宣言と「なる」という言葉がいかに度々連動して用いられているかにあなたも気づかれることでしょう。

ヨハネの福音書中には「わたしは何々である」とこの「なる」とが結びついていることが大変印象的です。それは必ずしも的確な言葉ではないかもしれませんが、文脈から同じ結論を見つけることはできるでしょう。いくつかの「なる」があります。

「わたしはいのちのパンです」「このパンを食べる者は永遠に生きます」(ヨハネ6:48、58)「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩くことがありません」(ヨハネ8:12)

主がどういうお方かということと私たち自身のつながりがこれなのです。「わたしを信じる者」わたしが何々であるがそのまま(信ずる)彼のものとなるのです。「わたしを信じる者は決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:26)

「・・・決して飢えることがありません」(ヨハネ6:35)羊飼いのいない羊のように彷徨い歩くことが決してなく、(主を信ずる)彼は生活において羊飼いのように、統率され導かれる真実を経験するのです。「決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」わたしは何々であることが真実となるのです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:25~26)わたしはあるということはあなたがたが信ずる時にそのまま実現するのです。

ところで私たちはあるという者では決してありません。私は死んでいます。しかし主イエス様は生きておられます。私は死をどうすることもできないのですが、私が信じさえすれば、主イエス様は私の死にあって私のいのちとなることができるのです。私は飢えています、霊的に死んでいます。ところで主イエス様はパンです。だから私は飢える必要がないのです。たとえ私がいつも飢えていても、主が私を養うパンとなってくださるからです。

それを考えてください。私は飢える必要がないのです。私は友達もなく、食べ物もなく、人里離れた田舎にいて落ち込みます。霊的なパンが全くない遠くにいます。しかし主はおっしゃいます。「わたしを食する者は決して飢えることがない」このことばは霊的に食べ物を得るのに、私がいるところ、私の置かれた状態、環境によると言っていますか。

そうでないでしょう。場所じゃないのです。主御自身なのです。環境ではありません。けれどもどうしてそんなことが可能か(とおっしゃいますか)(鍵になる言葉は)「信ずる者は(He that believes)」です。主よ、私は飢えています。あなたはおっしゃいました。もし私があなたに満たしていただくならば飢える必要はない、と。今私はあなたのお言葉通りあなたを受け入れます。私にあなた自身を食べさせてください。

それを実行しなさい。私は主を実験するようにとそそのかしているのではありません。試して見なさい。あなたはきっと尊いお方とのつながっていることを体験なさるでしょう。私は全くきよくありません。私はこれからもそれ以外の何者でもないでしょう。しかし主イエス様はきよいお方です。主イエス様(だけ)が正しさやきよさにおいて父なる神様を満足させるお方なのです。

(今日も Features Of Zion - Chapter 4 の抜粋引用訳です。 この項目は以前2月2日「神の愛される台所」という題でご紹介しているものと同じ4章の文章です。やや後半折角ですから原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003069.htmlよりは付け足して訳しました。写真は昨晩の三日月です。月を見上げることはほとんどありませんが、なぜか昨日は空を見上げました。昨朝読ませていただいた後藤さんの短歌が心の中に残っていたからでしょうか。月を詠む短歌は多いと思います。有名な道長の歌とこの歌は何と異なることでしょう。イエス様はそんな私たちをどこにいてもこよなく愛していてくださることを上述の文章を通して知ることもまた何と大きな恵みではないでしょうか。)

2011年3月9日水曜日

広さ、長さ、高さ、深さ

霧深きなかに聞ゆるうぐいすのいまだ初音と言えぬ鳴き声(後藤瑞義)
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(新約聖書 エペソ3:18~19)

聖霊に支配されるいのちのしるしは、いのちそのものが絶えずキリストに占領され、時が経てば経つほどキリストがますます大きくなるということです。私たちのうちに聖霊が働かれると私たちの思いを越えてはるかはるか遠くにまで広がる大海原の海岸へと私たちは連れて行かれます。ああ、それは何というキリストの深さ、満たし(を経験すること)であることでしょうか。もし私たちがかつて人が生きた通り生きるなら、依然としてこの広大な満たしであるキリストのへりの上にいるに過ぎないでしょう。

さあ、このことは私たちにとって、これ以上進まないうちに直ちに挑戦になるにちがいありません。これらのことは単なる言葉でも、言葉のあやでもなく、真理そのものですから。 私たちは自分の胸に手を当てて問うてみましょう。私たちの場合このことは真実なのか。これは私たちが知っているいのちの種類にあたるのか。このことに絶望するようになっているか。

言い換えれば、私たちが、自らがくたびれており、自らの深みから脱出し、これからは決してほっつき回らないことをキリストによって知らされる程度に応じて一瞥してみることです。それは私たちをはるかに越えたことですが、一方私たちはそれに強く引き寄せられているのです。このことがあなたの経験において真実となっていますか。それが聖霊に支配されるいのちの特徴なのです。

キリストは私たちが(聖霊にしたがって)歩めば歩むほど益々偉大になります。よろしいですか。もしそれが真実なら、それがいのちの道なのです。もしあなたがたと私がわかったと思い、全部持ち、獲得し、そこから事態は停滞するようになったと思うところまで来るなら、私たちはそのことから聖霊が働からなくなり、いのちが役に立たなくなったとみなすでしょう。

一人の人を例に取り上げてみましょう。私は確信するのですが、人々の中で、この神様のお用いになる方法を全面的に示すのにふさわしい人は使徒パウロです。彼の言葉によると最初光に照らされた彼に起こったことを適切に表現したことは次の通りです。「神様は私に御子を啓示することを良しとされた」(ガラテヤ1:16)いいですか、その人は大変たくさんの人々に教えもし説教もしました。彼はたくさんのものを生み出しました。

長い、かなり充実した人生を送りました。それは彼が生み出したものの多さだけでなく、彼の真価をさぐる試みに打ち勝った集中的な特質にあります。その長い人生、その充実した人生の終わりに、最初 「神様は私に御子を啓示することを良しとされた」と言ったその人は心の底から「私がキリストを知ること」(ピリピ3:10)が願いだと叫んでいるのです。確かにその辺のことは次のように暗示されています。すぐれて先導的に示された啓示、それに次いで絶えず続いて明らかにされたこと、知られていることと比較するものが何もわからないと(言わしめた)、第三の天にまで引き上げられ、人の言葉で話せないことを示されたこと。

「私はキリストを知りたい。」それが聖霊によって支配されるいのちの特質であります。いのちは私たちを死から、停滞や停止から解放するものです。キリストの学校における御霊の働きは、キリストの偉大さをあらわし、このキリストを見続けることにあります。

(今日の箇所はいつも通り The School of Christ - Chapter 1 の抜粋引用訳です。直接にはhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003068.htmlですが、少し訳がわれながら強引なところがあります。なお後半の文章は原文の最後にあたる文章をさらに理解するため、数行訳を付け加えたものであります。写真は今朝庭に訪れたメジロ二羽を木陰?に隠れて撮影したものです。たまたま今日拝見した後藤さんの短歌は遠く伊豆の山中の鶯を通して心を歌われたもので、私の心に留まりました。無断で拝借させていただきました。お許しください。)

2011年3月8日火曜日

宣教とは何か

パスカル(1623~1662)
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(新約聖書 ヨハネ5:39)

宣教は「いのち」のあらわれであり、型通りの仕事に従事することではありません。私はかつて宣教を一定の働きとしてとらえ、仕事としてするもの、つまりは宣教師としての職務をまっとうすることだと考えていました。確かに人はそのことに関心を持ちました。

かなりたくさんの人が(このために)働き骨を折り、心を砕き、神様の召しと自覚していることに背かないように、その定められた仕事から離れることがないようにと心がけています。他の多くの人は宣教が生計の手段であるという理由でそこから離れることもできず、彼らもまた心を砕いているのです。

しかし、それはすべて偽りです。宣教は決してそのような体制ではありません。宣教は「いのち」の現れであり、別の言葉で言うなら、内住のキリストが完遂してくださることだと言う以外にないのであります。その基盤に立たず、別の基盤に立って宣教している男女の前には困難が横たわるものです。

主が私たちをとらえ、私たちが本当に主を信頼し、その(内住のキリストが完遂してくださるという)基盤に立つなら、主は私たちにとって十分な宣教があることを示してくださるでしょう。私たちがそれを求めて右往左往する必要はありません。本当の働きというものは、かなり多くの場合、私たちがその基盤に立つことであり、宣教の結果、今の悪の時代から私たちが救われ、天の御国に到るということです。

主イエス様が私たちの模範です。皆さんはその天の人である(イエス様の)自発的な宣教、落ち着いた宣教を見られるでしょう。私はその宣教を切望するものです。そのことは、私たちが心を配らなくなるということを意味せず、かなり不必要な緊張から解き放たれるということです。それが(私の言う)宣教がどのようであるべきかということであります。願わくは主が私たちをして天に満ち満ちている天のいのちを持つ天的な人とならせてくださいますように。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 7 の一部の抜粋引用訳で7章の題名はThe Heavenly Man as the Instrument of the Eternal Purposeであり「永遠の目的を反映する器としての天の人」とでも訳せますでしょうか、その内容の結論部分です。結論に至るまで天の御国がどんなに栄光に富んだところか、みことばを通してスパークス氏は諄々と語ります。その中で、私にとって印象的であったことは、永遠のいのちとは、単に永らえることでなく、それは人に起源のない、天的な「いのち」であることが聖書に登場するナタナエル、ニコデモ、マリヤなどの例を通して明らかにされてゆくところでした。そして最後にいきなり、Ministryということばが登場するのです。それを上記のように私は「宣教」と訳しましたが果たしてどうなのでしょうか。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003067.htmlですので関心のある方はご検討ください。

今日は火曜の学びに出かけました。ベックさんは56年前に用意されたメッセージを語られましたが、みことばエペソ1:5~6、23、ローマ8:14、23、29は古びません。聖書の真髄は変わることありません。こどもであることから脱し、成長し神の息子になる者が天の御国を受け継ぐものであると語られました。スパークス氏と全く同じ信仰です。神の家を構成する一人一人は霊の生ける石です。だから、この石は、もちろんレンガではなく、知識を得ようとする主の学生でもなく、主が訓練を施されるこどもであることが強調されました。聞き終わって階下に降りましたら、写真のパスカルのことばの額が目につきました。パスカルもまた信仰が絵空事、空を打つ拳闘でもなく、生き生きとした信仰に生きる人でありました。そのようになるように、パスカルは主の訓練として病を得たのです。)

2011年3月7日月曜日

イエス様を見続けましょう!

一年(ひととせ)の 間柄得し 老夫妻 玄関に桃 生けるゆかしさ
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

もし、あなたがたと私が、パウロが改宗者して間もないのに、成熟したクリスチャンとしてなした進歩のようなことをしたいなら、また彼が霊的な印象と衝撃にあって獲得した実の何ほどかを得たいのなら、また主の働きにおいて成果をおさめたように成果をおさめたいなら、一つのことが全く根本的であり、そのことをしっかり把握することです。

生まれたばかりのクリスチャンはこのことを把握し、他の全てのクリスチャンも把握します。もし、私たちが自ら自力で救いを得たり、自らの改宗をはかったり、何かを処理しなければならないとするなら、限界があるということです。

私たちは「人の子」であるイエス・キリストの光をとおして万事を見なければなりません。それは私たちがこのことを賜物としてだけ、つまり救いを賜物としてだけ、またクリスチャン生活のその他のものを賜物としてだけ受けてはいけないということです。私たちはそのことを見て次のように言うべきです。

「与え主である主に関して重要なことは何か、キリストに関して重要なことは何か、私の救いを提供してくださった主の豊かさはどんな意味を持つのか」と。

あなたがたはその点を把握していないかもしれませんが、そのことは計り知れないほど大切なことです。なぜなら、キリスト者生活の進歩やその奉仕の力のすべては、把握したり理解することから生ずるのでなく、またそのようなものとして救いを喜ぶことでなく、イエス様を見続けることから生ずるからであります。イエス様は、もうあなたがたにもわかっていただけたと思いますが、すべての神の満たしの総体であるのですから。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003066.htmlであるが、総体としての Revelation of Jesus Christ - Chapter 7 の文章が参照できず、訳するのに苦労しました。いくつかの箇所で意味が通じないところがありましたので意訳を心がけました。原文をもお確かめくださると幸いです。写真は先日突然ご高齢の老夫妻をお訪ねしたおり、玄関でお見受けし撮影させていただいたものです。その日は、ちょうど一年前に私どもの家庭集会にお見えになった日にあたり、私たちが今度は初めてお宅に伺った日になりました。談たまたまそのことに話が及び、お互いに顔を見合わせ喜びました。「(私たちはそのことをしかと覚えずお訪ねしたのですが、奥様が何気なく一年前の日めくりの裏の覚え書きを見るともなく読まれて、はじめてこのことが判明したのでした。その導きを指して)これもやはり主イエス様のお導きですか 」とはその時の奥様の弁でした。)

2011年3月6日日曜日

律法からの解放

パン職人が新婚カップルに贈られたメタル(?)スタートだけでなくゴールのメタル(?)
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(新約聖書 ガラテヤ5:1)

律法主義はキリスト教の最も大切な言葉を切り捨てることによって、つねにキリストを十字架につけています。真のキリスト教に入るドアーの向こうにある言葉は「恵み」ということばです。それに対して、律法主義はつねに「恵み」ということばを消し、その代わりに「律法」と書くのです。

恵みはクリスチャンの語彙の中の中心になることばです。律法主義がもっとも完全に自らを現す場合、必ず空の墓でなく十字架であることを心にとめていますか。クリスチャンのしるしは空になった墓です。それは「死からよみがえったいのち」を指しています。律法主義のしるしは、十字架、「死せるキリスト」です。律法主義は必ず死を持ち込みますが、キリストに関する中心事は復活です。それこそ死人がよみがえって生きたことを示しています。

このことは、神がパウロに御子を啓示することを良しとされた時に経験するようになったことです。そして彼は言いました。このあらゆる律法主義の枠組みから自由にならせてください。私たちが十字架につけたナザレのイエスは生きておられます。イエス様は私の心の中に生きてご自身をあらわしてくださったのです、と。

もし私たちが主イエスを本当に見るなら、私たちは自由になります。私たちの中にはすでにその経験をした方がおられるでしょう。かつては私たちも律法主義に捉えられていました。私たちは律法を基準に物事を考えていました。

それから主が私たちの目を開いて下さった時に、キリストの大切さを本当に知る日がやって来たのです。そして律法主義の全体系はすべて無意味なものとして崩れ去ったのです。そうなんです。「あれやこれやのことから離れて、こちらの方に来なさい」と言うのが私たちの働きではないのです。「何々しなければならない」とか「汝はかくすべし」というのはこの領域では通じません。それは古い律法主義の領域に属することであります。

 「何々しなければならない」というのは霊的なことであり、決して律法ではないのです。パウロの場合、霊に導かれて力ある実行が実際にあったと言えるでしょう。私も主を知りました。そして益々主がどういうお方かを日々知らされているのです。主イエス様を知ることは私のうちに次のように(パウロが言うように)絶対になすべきこととしての生き方が日々新しく与えられるのです。

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、上に召してくださる栄冠を得る」(ピリピ3:13~14 )だから私たちは「あなたの仕組みを変えてください」と言いません。けれども私たちは言いたいです。「主があなたに御子を啓示してくださるように求めなさい」と。それがなされる時、偉大な(律法からの)解放の働きが始まるのです。

(今日の記事は1964年にフィリピンのマニラで語られたスパークス氏の一連のメッセージの記録 "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 29  の一つです。全部で42あるメッセージは比較的読みやすい英文です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003065.htmlです。写真は一月ほど前に披露された結婚式場のいかにもすぐれたパン生地によるケーキです。スパークス氏はパウロの言葉を引用しながらPRIZEということばを紹介しています。新婚夫妻にもこの神の下さるPRIZEを知って欲しいです。)

2011年3月5日土曜日

啓示によって主イエス様に出会う

椿さん ピンクの笑みよ 惚れ惚れし 
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

私たちの中でこの世の力を味わった人々は、この世のことと宗教上のこととの結びつきがどうなのかを、人の性質に関して認識しています。そこには領域が違うだけで、性質が異なるのではないということがあります。この世の音楽や劇がある意味で生み出すもの、心をかきたてたり、鼓舞したり、懇願すること、すなわち情念、涙、軽蔑、憎悪、怒り、憂鬱、喜びなどは状況が異なるだけで全部同じであるということです。事実はこの世の生み出すものはなくなり、私たちは本当は遠くないのです。

少しのよりすぐれた音楽、説教者の交代、馴染みの場所でないこと、二三のよりすぐれた感動は多分私たちの魂を痛く刺激するでしょうが、結局私たちのいるところは(本来)どこなのでしょうか。サタンは仮面の裏でどんなにか笑っているに違いありません。ああ、真実を求めて、永遠の真実を求めておるわいと。

その人たちは、美や崇高なものの鋭い感覚を持つ高度な教養ある人が、この世に関して、(それを持ち合わせない)下品な人よりも非常にすぐれていても、そのようなものは、必ずしも神を個人的に生き生きと知る、すなわち神を人の子として知り、本当に新生しているという基準にはなりえないということを知ることでしょう。

私たちが「信仰復興」を求めて祈る時、私たちがあくまであとである(神様が第一)ということ、また私たちが推進し、動かすのにどんな手段を用いているかに関して注意したいものです。・・・使徒パウロは彼の生活と奉仕のすべての秘密が「啓示によって」福音を受けたという事実であったことを明確にしています。

私たちは聖書を一冊の本としてもっとも完全に知ることができるかもしれません。しかし霊的には死んでいて無価値であることがあり得るのです。聖書が神を知ることや永遠のいのちの基盤にある信仰について語り、その結果として自由を獲得し、恵みを得るなどする時、聖書はやはり人が探求することによって神を見いだすことは不可能であり、霊の知識であり、生まれながらの心による知識ではないということを大変明確にしております。

かくして豊かな聖書知識、キリスト教教理の正確で巧みな把握力、人の生まれながらの英知や能力によりクリスチャンの働きをなすこと、聖書の内容やテーマを巧みに興味を持つように提示することは少しも生来のいのちを越えるものでなく、依然として霊的に死んでいる状態にとどまっているのかもしれないのです。

人は議論を挑まれたり、理性で納得されたり、惹きつけられ、関心を持たせられ、「感情が高ぶらされ」たり、熱狂的になったりさせられて天の御国に入れられのではありません。ただ(新しく)生まれることだけが可能であり、それは霊的なよみがえりによるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003064.htmlですが、どうしても All Things in Christ - Chapter 10 の中には何度探しても見い出せませんでした。恐らくこのホームページ提供者の何らかの単純なミスだと思います。どなたかが気づいて直していただけるとありがたいです。なお本日の箇所は繰り返し読む必要のある箇所だと思います。それだけ一層この文章がどこに納められているか前後の文章を知りたいです。読者の中でその文章の原典を探してお知らせくださるとありがたいです。人間のすることですからこういうミスもあるのですね。一時はこれはこのような無駄な訳業はやめとけという合図かと思いました。ふりかえってすべての訳業が恥ずかしいばかりの誤訳の連続です。読者諸氏のご理解をお願いします。)

2011年3月4日金曜日

見えないものを見つづけたい。

ひよどりの キョロキョロと 見しものは 我の姿か 見えざるものか
彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(新約聖書 マルコ8:25)

親愛なる皆さん、あなたも私も個人ですが、もし私たちが主の民の仲間に属するとしたら、その集団もまた、それぞれがイエス・キリストを霊的に見るなら、その時初めてキリストにあって完全に究極的な神の目的に向かって進むことができるのです。主を見ることが前進に欠かせないのです。

「見える」という言葉について考えてみましょう。もちろん、私はあなたの肉の目が見たことについて考えようとしているのではありません。あなたの内側で起こることについて考えたいのです。あなたは、霊的な内側の目が開かれているのです。

だからあなたはおっしゃるのです。「私は主を見ました。私の生活は全く変わりました。私自身がどうであろうとも、私を導く生活の力となりました。」そうなんです。神様に感謝してください。そうなるのです。私は私たちがしなければならない面やその要因を無視しているのではありませんが、神様はもし私たちがしなければならないことや自分ですることを手放す意志があるなら、私であろうとあなたであろうと、ともに助けてくださるお方なのです!

私はあなたにお伝えしなければなりませんが、私も何回も何回も競争※を諦めたことがあるのです。そして、このことはあなたの体験なさったことでもありましょうし、あるいは今、体験なさっていることを言い表すことになるのかもしれませんが・・・

そのことは言い表すのも恐ろしいことです!実に何度も何度も私は心の中で諦めたでしょうか。余りにも難しく、もうこれ以上前に進めなくなるほどで、全くお手上げでした。だから、私が続けられたのは粘り強さではなく、使徒が「私のうちに働く御力」と呼ぶものでした。その御力とは何でしょうか?

聖霊が私たちの内に力を入れてくださるのです。私たちは(そのことを)経験したのです。経験しないことはあり得ないのです!戻ることはあり得ないのです。いわゆる見ることは薄れていくことでしょう。日毎に暗闇と困惑ゆえに影に支配されることさえありうるでしょう。

パウロが「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり」(2コリント1:8)と言った時の意味を知ることができます。それは全ての使徒のうちで最も偉大な人にとっても言うさえ恐ろしい経験でした。しかし、何が起こりましたか?パウロは諦めて「ああ、私はもう前に進めない!」と言ったでしょうか。

いいえ、飛んでもありません。「私たちのうちに働く御力」が彼の足を何度も何度も立たせたのです。エリヤがえにしだの木の陰にすわり、「私のいのちを取ってください!」と言ったときのことを考えてみましょう。主は同意なさらなかったのです。主はエリヤに主の偉大な永遠にわたる目的の分け前を与えられたのです。ですから彼は再び立ち上がることになるのです。

勇気を出してください。あなたは落ち込んでいるのですか。落胆しているのですか。失望しているのですか。もう前に進めないと感じているのですか。それでもあなたは再起します。何かが起こります。私はそのことを「見える」と呼んでいますが、それが間違って受け取られているのでしょうか。

私の言おうとしていることは、霊的な知恵が私たちの生活の中に入れば、私たちに目的、すなわち神の目的意識が与えられ霊的な力となるということなのです。それは神様がなさることであり、少なくとも私たちが生き残る秘訣となるということです。しかし生き残るために私たちが生かされているのではありません。私たちは自分自身のいかなる力をもとにしても生き通せる者ではなく、イエス・キリストにある神様の目的を見させていただくなら、神様の永遠の計画通りにその計画のうちを歩んで行けるのであります。

(今日の箇所は The Will Of God In Relation To His People - Chapter 3の抜粋引用訳です。比較的読みやすい文章ですが、意訳を多くせざるを得ませんでした。原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003063.htmlより少し後半長目に余分に訳してあります。 ※「競争」全体としてこの文章はヘブル12:1~2が引用聖句になっており、そこに「私たちもいっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」が含意されていると思われます。読者は突然のごとく出て来るこの「競争」をこの意味で理解されることが求められていることと思われます。その背景で上述の文を再読されると味が出てくるのではないでしょうか。)

2011年3月3日木曜日

わたしのことばは火のようではないか。

クロッカス 黄色鮮やか 天を向く  
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。(新約聖書 ルカ12:49)

火は常に物事を明るみに引き出すものです。火が這い寄り侵入し襲いかかる時、火によって滅ぼされるものと火によっても何の効き目もないものとを峻別します。物事を鮮明にし、ふるいわけ、決定的にするのです。ルカ12:51の文脈を見てみましょう。

「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」主イエス様は続けられます。「今から一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗し・・・」と。それぞれがふるいわけられ、その属するところに納められるのです。

ある区分は神からのものであるので、存続しいつまでも永らえるものです。別のものは火によってひとなめにされ、いともたやすく存続そのものが断たれることでしょう。「この火はその力で各人の真価をためします」とパウロは言いました。(1コリント3:13)不可避で過(あやま)たず峻別してしまう火です。

それはいつも聖霊の働きの結果でありました。私たちは自らが属しているところに落ち着くのであります。それは四六時中、一種の分離する働きをします。あなたは主のために存在しているのですか、それとも主に反対するために存在していますか。あなたは主とともに行動するものですか、それとも行動しないものですか。

聖霊は私たちの本質が明らかにされるように、また私たちがそれにふさわしくなるように四六時中迫りその道筋を通して明らかにされます。その結果、聖霊が働く時、私たちははっきり主のものとなるのです。分離は必ず来るものであり、避けられないものであります。

(今日の箇所 The Cross and Way of Life - Chapter 1 は英語力のない私には全くお手上げの箇所でした。苦労したあげくの文章が上のものです。 原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003062.htmlの意味をはき違えていないかとただ恐れるばかりです。ただ今日は定例の家庭集会が開かれ、「貧しい者は幸いです。」と一人の兄弟にイエス様のおことばを伝えていただきました。自分自身が主の御前で驕れる者、豊かな者であることを骨の髄から知らされた思いです。天の御国に入るために枢要なみことばでした。みことば自身が火です。おろそかに人生を歩みたくないです!)

2011年3月2日水曜日

神のご計画と恵み

ムクドリを 追い導かれ 野辺歩く
神は私たちを救い、また聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。(新約聖書 2テモテ1:9)

神のご目的は御子に関する永遠性から出発しておりました。そこには二つの事柄があるのです。あとの特徴として入って来たことではありません。私たちが時至って理解することに先行しています。それはこの創造や歴史に先行している事柄です。

世界の基礎が形造られる前に生じたことであり、時以前の永遠の目的は御子に関することでした。それは(最初の人 )アダム以前に戻ることです。そのことは神の目的を創造自身よりもはるかに意義あるものとするのです。神のご目的は永遠からあります。それがために神の目的はただ単に堕落していないアダムと結びつけられているだけでなく、神の御子と緊密に結びつけられています。

主イエス様は人を救うため、その(滅びの)運命から救い出そうとして、それだけが目的で来られたのではありません。私たちは贖いが全宇宙の最大の出来事であり、すべての神の関心は贖いにあり、それゆえもっぱら心を贖いに集中すべきだとして、これらのことが強調され、そのことを信ずるようにとだけ、ややもすると導かれているのではないでしょうか。

贖いは大切な事柄です。私たちは決して、決して、誇張することはできませんが、私は疑いを持っているのですが、私たちは贖いがどんなに偉大なことだと果たして知っているかどうかということです。贖いはその広さにおいても深さにおいてもその犠牲においても偉大なことであります。しかし、それにもかかわらず、贖いは永遠の目的からすると一時的なことに過ぎないのです。

キリストはご自身を受け継ぐ者を救うために時満ちて来られたのです。もちろん人はそのゆえに救われるのですが、実はそれ以上にはるかに大きなことがあるのです。そのことは第一義的に御子と関係することです。主の民が、正しい態度や正しい見方をとるまで、すなわち神の満たしや神の究極的な関心のあるすべての事柄は神の御子に集中していると、悟るまでは、まだそれらの人々は(救われたと言えども)神様が備えられているすべての宝を味わうところまでには至っていないのです。

関心が私たち自身に向かっている、すなわち贖い(義認)、聖化、栄化など私たち自身に向かっていたり、御子ご自身よりははるかに小さなことに向かっている間は、神がご自身の働きを完遂される御力を経験することがないのです。だから、聖霊の働きが十分でふさわしいものとなるように心にイエス・キリストの啓示を受けることが必要なのです。と言いますのは、すべての神の爆発的な力が解き放たれ活発になるのは、ひとえにキリストと神がキリストに関してあらかじめ持っておられる目的に関わることであるからであります。

(今日の箇所は The Kingdom That Cannot Be Shaken - Chapter 6 の抜粋引用訳で、原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003061.htmlです。 少し原文よりは数行手前から訳しましたが、意味が通じないところがあるかもしれません。疑問に思われる方は原文を直接お確かめください。「揺り動かされることのない御国」とも訳せるこのメッセージ全体も最初からこつこつ読んでこそ意義があるのでしょう。)

2011年3月1日火曜日

天の窓を開こう

窓外に さんしゅゆ花 咲きほこり 愚かな者も あふれるを知る
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ。(旧約聖書 マラキ3:10)

リバイバルを求めて大変多くの祈りがなされ、せきたてるような訴えがなされています。もし神の御霊が、キリスト教の体系を彩っているそんなにも多くのことがらを無視したり、超越し、まるでそんなことはほとんど価値がないかのようにするなら(事実、聖霊は神について大切なことに関して決して妥協しないのですが)御霊はすでに定着しているものの再考を求めているということを意味するのではないでしょうか。

再考をするのにはいくつかの道があります。たとえば、キリスト教徒が現実生活に近づき世的な生活を求めれば求めるほど、儀式のようなことがらがそれだけ多く幅をきかせてきました。儀式、典礼、祭服、式典、形式や外形的なものが、いつも霊的に低く貧しい状態の特徴でした。だから、それらが重要視されることは労せずしてその霊性の尺度になっているのです。

他方で深く強く純粋な霊的状態はつねに単純性によって特徴づけられており、上述のようなものがありません。歴史はこのことを疑いもなく証明していますし、御霊の流れが際立った証拠となっています。教会にもっとも大きな霊的活力・影響があった時代は教会の形式、建物、儀式がなく、主御自身が全てであった日々でありました。

霊性がより低くなった状態から脱出するためには私たちは神の御霊の力ある訪れを必要としています。このこと、このことだけがそれをなすのであります。ほとんどの人々はこのことに同意します。私たちはこの線に沿って言われて来たことをたくさんこれまで聞いて参りました。

つねに私たちを混乱させたものは、この種のことがらがこれほど繰り返し、強く言われたのに反して、言われたことが結果として実際に改革に進むほど十分な強さをもって印象づけられなかったようであります。だから他方で、もし私たちが、御霊が働き、何度も何度も御霊が(私たちの実行を)妨害する事態に深刻にも直面したのだとしたら、その道はもっと霊的生活を「恒久的」に高い水準に導き、満たし、価値あるものへと開かれていることなのではないでしょうか。

改革はリバイバルにとって本質的な部分ではないでしょうか。主はご自身が「天の窓を開かれる」前に一定の思い切った改革を求めておられないでしょうか。(マラキ3:10)

主が、ご自身を啓示により明らかにされ、また目的や方法を明らかにされた結果、キリストだけの立脚点に立ち、その満たしに導かれる人々が与えられました。しかし、たとえその時や、その場所がどうであっても、それらの人々は必ず大きな痛みを伴う犠牲に直面せざるを得ませんでした。通常、その犠牲を必要としたのはキリストにある彼ら自身の兄弟たちなのでありました。

組織化されたキリスト教にとって、機構や宣伝や組織化された働きのあらゆる枠組みなしに、果たして、価値あるどんなことでも実行できると信じることは、いかに難しいことでありましょうか。神の力ある、もっとも十分な働きは、その性質上もまた恵みにおいても、隠密裏に静かに控え目になされ、多くの場合、誰かが知る以前になされるかどうかを立ち止まってよく考えてみることは良くないことでしょうか。

春の季節が訪れるごとに自然のよみがえりについて私たちは一体何を学んでいると言えるのでありましょうか。神の最も高い働きの法則は生物的であり、いのちの法則なのであります。それは有機的であることを覚えたいものであります。

(今日の箇所は The Release of the Lord - Chapter 7 で原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003060.htmlです。大変訳するのに手間取りました。英語の専門家、また信仰の良き先輩の判断を是非仰ぎたいところです。 この文章全体は1929年に初版が出され、1970年までの数年間に書き加えられて行ったものです。7章は最後の章ですが、「クリスチャニティー」は一般のキリスト教徒を意味するのでなく福音的なクリスチャニティーをさしているのだと述べ、その特徴を3つあげて、いかにそれが御霊を悲しませるものかを指摘しています。考えさせられる内容です。興味ある方は直接原文をお読みください。折しも今日の火曜の学び会でベック兄は神の家が霊の家であることをみことば1ペテロ2:4~5に基づいて明らかにされ、その家を支配する掟は「いのち」と「霊性」であると言われました。有無相通ずるものを覚えました。今日は昨日よりはましですが空は曇天模様の日本です。でも確実に春は近づいています。)