2011年4月30日土曜日

私を強くしてくださるお方

クレマチス あなたも不思議な 花です(ね)
私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなこともできるのです。(新約聖書 ピリピ4:13)

とどまるとはどういうことですか。これまでしばしば申し上げてきましたように、キリストにとどまることは自分自身のうちにとどまることとは反対のことです。

自分自身にとどまるということはただ単に自分の力で主のために生きようとしたり、働こうとしたりすることです。主に助けを求めますが、神様に完全に喜ばれる生活がすでに存在し、その信仰はキリストにあって全うされていることを当てはめてて考えないことです。

それに対して、キリストにとどまるということは、すべてのことをなし、すべてのこと満たすに際し、キリストの力でするということです。それは確かな地盤です。それはなされ得るものか、私はできるのかと、疑問も訳を問う必要がありません。さもなければ私はそのことについて確信がありませんが、それは必ずなされます。

主イエス様はあなたや私が遭遇するすべてのことを満たし、あらゆることにおいて必要なことをなされたのです。それは信仰によって手に入れるものです。信仰は言います。私にはことは馬鹿げており、実行することも非常識で、そのことを考えることも愚かです。しかしそれは成るのです。私はこの求め、あの求めを満たすことが出来ます。これをやり抜き、あれをやり抜くことが出来ます。「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことも(「どんなことも」とは大きい言葉です)できるのです。」キリストが私たちの強さや、成長の隠れた源泉として存在するのです。


これは一つの学校です。だから私たちは少しづつこの課題を学ぶのです。主は学ばれたのです。だから私たちは私たちのケースが記録されているものとは異なっていても、学ぶのです。私たちは主が実現された満たしから引き出すことを学んでおり、ゴールに向かって自ら前進する時には満たしからはずれるのです。私たちは主が満たしに向かって動かれた満たしにどのようにして戻るかを学んでいます。

イエス様にとって十字架は終わりでしたが、私たちにとっては始まりです。私たちはどのようにして主の満たしに戻るかを学ばねばなりません。小さな子どもが、一から歩くこと話すことを学ぶように、一歩づつ漸進的に学ぶのです。子どもたちのように、私たちはなし得なかったことや以前試みたことにも直面します。それらはすべて新しく不思議なことであり、新しい世界、時には非常に恐ろしい世界であります。小さな子どもにとって最初の一歩を踏み出すことを考えることだけでももっとも恐ろしい課題であります。

あなたと私は信仰の領域に導かれています。そこでの始まりのもっとも単純なこと、最初の一歩を踏み出すことは時々私たちにとっても恐怖で困難なものです。けれども腕が差し伸ばされています。その方の腕は今も私たちが求めるものを実現するために私たちに代わってくださり、事はなされています。強さはそこにあり、証明済みの強さを手にできるのです。この方の腕を知り、信頼し、歩み出すことにより、私たちはキリストによって歩くこと生きることを学ぶのです。すると次にはもっと遠くまで行くことが出来るのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003170.htmlです。このところラフな訳になっています。とんでもない誤訳があると思います。ご寛恕を!)

2011年4月29日金曜日

主イエス様はすべてのすべて

草緑 ルナリアの花 引き立てり 創造主に 魅せられる春
唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(新約聖書 1コリント8:6)

救いは単に救われる魂を得ることだけにあるのではありません。救われた魂がキリストの満たしを求めて歩み始めることにあります。みことばと御霊のうちにある宣教はことごとくその目的に支配されているのです。したがって、ただ救われただけでそこに留まっていることは、みことばの目的が台無しになっていることであり、御霊の働きが不十分だということです。

私たちが「主の働き」と呼んでいる、世間のどの場所に出て行くにしても、次のことに支配されていることが大切にならなければなりません。 それはその場所にあってはキリストの満たし以外の何ものも他にはないということです。可能な限り、キリストはすべてであり、そこのすべてのうちにおられるということです。それが究極であり完全な到達点であります。キリストとの分裂は一切なく、その役割分担もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストが存在しなければなりません。

私たちはそれが聖霊の目的であることを認識する時に、いのちが与えられ、明確にされた宣教を体験するのです。そのことはすべてに適用します。もしあなたが主のものなら、あなたの生活は主のみことばと聖霊によって支配されるにちがいありません。もしそうでないなら、あなたと主との関係は正しくないものがあるのです。あなたの働きがたとえどんなものであっても、たとえば、両親として家庭におり、家の台所の処理しなければならないことにかかわり、仕事の最中であっても、あなたが個人的なことに関して、その場で主とつながっているなら、あなたの生活はキリストをあらわしているはずです。そしてそれが宣教なのです。

もし生活のあらゆる分野にそのことが浸透しているなら、事態は全く異なったものとなったことでしょう。それはすべての動機への挑戦であり、すべての考察を支配するものとなるにちがいありません。あらゆる紛争、あらゆる闘争、さらに私たちを混乱させイライラさせ、その結果何らかの闘いの渦の中に投げ込むようなすべてにおいても、そのことが解決となるにちがいありません。物事はただこの一点、キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがおられるということに立って試されねばならないのです。

(今日の文章は Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003169.htmlです。)

2011年4月28日木曜日

あなたの力はどこから来ているか

人力は かくなるものか ブルドーザー 舗装表を 剥ぎ取り進む
自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。(旧約聖書 ダニエル11:32)

私たちのうち数人の人々は自分たちが完全に(主の啓示を)体験するようにされた日のことを覚えているでしょう。その日に、私たちが非常に長い間話されていたことが、突然、御霊の大きな働きによって、自分のうちでいのちとなり、「これがあのことなのだ」「これが預言によって語られていたあれなのだ」と言うことが出来たのです。知らされる真理から生きている真理への移行でした。知らされていた教えから今体験していることへの移行でもありました。そして喜び鳴り響く宣言「これがあれなのです」と伝えるようになったのです。

私たちすべてはその移行を体験していなければなりません。今やそのことは急がれねばならないのです。私たちがその力のうちに自立して立つまで、私たちのうちでいのちとされねばならないのです。

どれだけあなたは自分の信仰生活を前進し続けさせるために委員会や教師に依存したらいいのですか。あなたは自分が得た最後の分け前が使い尽くされ、新鮮な供給を得なければならないと感じるという、まさしくその理由のために集まりに出席しなければならないのですか。それともあなたは自分は自分の神を知っているという理由のためにあらゆる人間の支えから解放され、栄光ある自立の位置に入ったのですか。

あなたがサハラ砂漠のど真ん中に突然おかれているかはもはや気にならず、あなたはあなたの神を知りあらゆる生来の助力から独立して立つことが出来るのです。このことが今やあなたの経験となったのです。それが力を意味する知識ということです。それはまた世に勝つ経験です。あらゆる他の世の機構を下ろさせ、それらの上にあなたが立ち、勝利するような種類のものです。

それが使徒の教会の秘訣でした。王様たちをしてやりたいようにさせよ、人々をして怒らせよ、そしてそのことが続きますが、このことの前に粉っぱみじんにされるのはローマ皇帝であって、ローマ皇帝の前で屈服するのはこのことでないのです。それが神様を個人的に主体的に知っているということであり、内面的に生まれることから来る、生きていることの結果であります。客観的な真理であるだけでなく主体的な力であり、知られた真理のもっとも小さなかけらまでもが、その働く力において生き生きした個人的な経験となる偉大な日であります。

それが私たちが求めているものです。じかに知っている知識であって二番煎じの真理ではありません。願わくは、神様が働いて、私たちの存在そのものに入ってくださり、このことが私たちのものとなりますように。もしあなたが好むのなら、それを(真理の)断片として受け取りなさい。そして、主に求め、それがあなたのうちに働き、あなたのうちに生きたものとなるように、願いなさい。

(今日の箇所は The People That Do Exploits の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003168.htmlです。 )

2011年4月27日水曜日

悩みの炉の目的

「こんにちは 皆さん桜(は)豊かです(よ)」ムクドリ君の声 
わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(旧約聖書 イザヤ48:10)

悩みの炉はキリストにあって生きる信仰者のためにあります。一体、悩みの炉において何が起こるのでしょうか。火が処理するものは何ですか。火が精錬するのはあなたですか、また私ですか。あなたは火によって精錬されますか。 私は悩みの炉で精錬されるのでしょうか。私は言いたい、そうじゃないのです。もう一度強調したい、そうではないのです。

もし私たちがそうだと言うなら、よろしい、一緒に悩みの炉、るつぼにおいて金属を精錬する火を見ましょう。 あなたはその金属をもってどうなさるのですか。あなたはおっしゃることでしょう。火でもって強力に熱し、全不純物や腐敗物が表面に出て来る。これが除去されて、その過程が最後まで実行された時に純金が残されるのだ、と。それからその純金があなたであり私であるとおっしゃるのなら、あなたは全部が腐敗しているという教えを捨て、結局は私たちのうちには良いものがあるというところにまで戻らねばならないでしょう。

あなたは私たちのうちには良いものも悪いものもあるが、悩みの炉が私たちの悪いものを除去し良いものを残すのだと言うのでしょう。それは本当に聖書が言っていることですか。いいえ、そうではありません。悩みの炉は私たちのうちにある良いものを残そうと悪いものを除き去り、それを達成するためにあるのではありません。

では、悩みの炉の目的とは何でしょうか。私たちのうちにあるキリストを精錬するためですか。そのことについて議論する必要はありません。キリストは精錬される必要のないお方です。それでは何のためですか。それは私たちのうちにある堕落した性質とキリストにあるものを分離し、その堕落した生まれながらの性質を除去し、キリストにあるもので満たすためにあるのです。悩みの炉は十字架の適用であり、あなたも私も取り除かれ、全部キリストのものとなるために起こされているのです。神がすべてであり、私たちのうちにある良いものと悪いものとを切り離すことではなく、キリストにあるものと私たちの自我とを切り分けるというのがキリストの基準なのです。

それは主がなさることなのです。主は益々盛んになり、キリストがすべてなのです。そして主はそのことをなさるために、自我、古きものを除去されねばならないのです。この領域における全ての基準はキリストです。神の国は自我を浄めたり、自我を改造したり、さもなければ自我のつぎはぎをしたりすることではありません。自我からは何もなく、キリストからすべてが成り立つのです。

(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003165.htmlです。すべて基本的だとは言いますが、私には目から鱗の言辞が沢山出てきました。全文を読んでみる価値があると思いました。今日の箇所の引用聖句にはほかに2コリント5:14~18がありました。)

2011年4月26日火曜日

安息への真の招き

各地でハナミズキが今や盛んですね
安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(新約聖書 ヘブル4:9)

私が、私たちクリスチャンは常に私たちのキリスト教と対決させられ、挑戦を受けていると言おうものなら、皆さんの多くの方にとって、この言い方は長い歴史を逆戻しし、非常に広い分野に出るものに聞こえることは確かです。私たちの多くは本当は今までキリスト教に入ったことがないのです。私は何を言おうとしているのでしょうか。いいでしょうか。一例をあげれば、キリスト教へのとびらそのものは安息のとびら、信仰による安息ということです。主が訴えられた極めて簡素な道は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)でした。

それは群衆に対してでした。そしてこれらのことばは救われていない人への福音メッセージとしてつねに使用されています。主がこれらのことばをお用いになった時の意味はヘブル人への手紙のここで言われているように、あの簡素な招き、「わたしのところに来なさい・・・わたしがあなたがたを休ませてあげます」 として一般に認識されているよりは、はるかに深い、また完全な意味として与えられているのです。「ですから、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです」との言明には私たちが聞いて悟らなければならないものが確かにあるのです。

もし皆さんがこの文章を文脈から見るならば、意味は神の民がまだ経験していないことであります。「彼らは不信仰ゆえに入ることが出来なかった」(ヘブル3:19)彼らは入ることが出来なかったのです。彼らとは誰ですか。神の民です。安息が残されているのは依然として神の民のためなのです。安息を未来に据えることがないようにしましょう。それは全然そういう意味ではありません。のちに、私たちは栄光のうちに天の故郷につき、安息日の休みに達し、休息に入ることでしょう。しかしここで言う安息は墓石の安息、彼あるいは彼女が休息する安息の意味ではありません。今、現在神の民のために残されており、死においてでなく、生において残されているものです。安息は残されているのです。

皆さんは私が余りにも初歩的なことを言っているとは思わないでしょう。なぜなら、私が自分の心のうちに経験していることはもちろんのこと、皆さんもご自身の心のうちに経験しておられることは、この心の安息のこと、すなわち信仰の安息が、絶えず生きている問題であり、始終それは話題に取り上げることだからです。私たちのかなりの数に上る人たちに欠けているものの一つがこの安息であります。逆に言いますと、私たちを大きく特徴づけていることと言えばそれはいらいらであり、心配事であり、不安定であります。まさしく落ち着いた確信、静かな信頼、いつも「心配しないでね、いらいらしないでね、大丈夫だから」と言うような精神や態度や雰囲気とはまるで反対のことばかりです。私たちの敵がつねにしようとしていることはその安息を妨害し、壊し、奪い、かき乱し、いらいらさせ、悩ませ、私たちが安息に入ろうとすることを妨げたり、私たちから安息を奪ってしまうことなどであります。

安息は信仰の安息であって、無抵抗や無関心や不注意から来る消極的な安息ではありません。不注意によって何も知らないでいることと問題があるのに心配しないこととの間には天と地の開きがあるからです。神の民に対する安息は残っているのです。いまだに持たれねばならないものであり、獲得するもの、存在するもの、保持されるべきものであります。まさしく安息は神の民のためのものであります。

私たち自身が安息を経験するまでは、また、経験していないなら、救われていない人のところに行ってキリストのところに来て休みを見つけなさいと勧める資格はありません。もし私たちが安息を経験していないなら、私たちの証や宣教は台無しにされ、弱くされ、力のないものになり、信用の置けないものになります。そしてこれがこのことにおける敵の活動の目標であります。私たちの信用をなくさせることは、私たちが、主と結びついている相続権そのものを奪うことによってなされるからです。主は決して不安を持たれず、心配されず、すべてを治めておられるお方を決して疑われません。皆さんがおわかりのように、安息は神が主であるという信仰の実際的な完遂であります。・・・

(今日の箇所は The Rest and the Courage of Faith の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003164.htmlです。最初から訳しにくい文章で最初の数行は日本語をあてはめてみたという程度であり、意味が鮮明ではなく申し訳ありません。賢明な読者の方の助言が欲しいところです。また文章全体も誤訳の恐れが多分にあります。指摘してくださると感謝です。ただし文章全体は非常に意味の深い内容があるように思います。当然ですが・・・。アンドリュー・マーレーにThe Holiest of Allという作品があります。それと照らし合わせたかったのですが、今回は出来ませんでした。次の機会にチャレンジしたいと思っています。なおスパークス氏が引用している聖書箇所はヘブル4:9、ヘブル3:19、ヨシュア14:6~14です。)

2011年4月25日月曜日

いのちは主を知ることにあり!

ブルーベリー 七月まで よろしくね
神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。(新約聖書 1ヨハネ5:20)

ヨハネの福音書は特にこのことを知らせてくれますが、その終わりに向かうまでに、「知ること」ということばは何と55回出て来るのです。私たちの主は宣言されています。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)このことはただ単に永遠のいのちはこの基礎の上に与えられるということを意味しているのだけではありません。非常に制約された知識をともなういのちがあり得ます。しかし満たされたいのちは密接にその知識と関連しているのです。そして主をますます知ることがいのちが増し加わることだと宣言しているのです。交互に両方面に働くのです。知識がいのちを豊かにし、いのちは知識を豊かにするのです。それですから、主イエス様ご自身が人として、神様に依存する人を体現しておられることを知ると、神様が私たちを取り扱われる中心になる目的は私たちが主を知ることにあると、予め十分に知ることができるのです。これが私たちの体験、試練、苦しみ、混乱、弱さ、窮状、当惑、圧迫のすべてを説明するのです。霊のきよめ、恵みの発展、不純物を除去することはすべて火の目的であります。しかし全部をとおしてその上に一つの目的があるのです。それは私たちが主を知るようになることであります。本当に主を知らしめるための道は一つしかありません。それが体験をとおして主を知るという道であります。

主の子どもにとってもっとも大切なことは、何をさておいても、主の目的が主ご自身を知ることであることを完全に認めることであります。このことは主が私たちを取り扱ってくださる上での最終の目的であります。これが私たちのすべての必要の中で最大のものであります。

私たちの心は往々にして奉仕や働きのことで心が一杯になります。私たちは考えるのです。主のために行なっていることが人生の主要な目的であると。私たちは生涯をかけての仕事、宣教に関心を持っています。そのためにはそれらの事柄を学び、知って準備しなければならないと考えます。魂を勝ち取ることや信者を教え導くこと、人々を(宣教の)働きにつかせることが最前面の重要なことになります。聖書研究や聖句の知識は、キリスト者の奉仕を導く上で効果的であり、見るからに目的でもあり、すべての点で喫緊に重要なことであります。

こういうことにたいしてなされるすべての良い事柄は重要ですが、すべての事柄の背後に主は他の何ものにもまさって私たちが主を知ることにもっと関心を持っておられるのです。聖句に関して素晴らしい理解力を持ち、教義を深く会得し精通することは大変可能なことではあります。信仰の基本的な真理を維持すること、キリスト者の奉仕を絶えず続ける人であること、人の救いのために身をささげることも、しかし、ああ神様を心の内側で個人的に知ることに関しては何と不適切で限界があることでしょうか。

だから主はしばしば私たちが主を見出すことの出来るように私たちの働きを取り上げなさらなければならないのです。すべての事柄の究極的な価値は私たちが与える知識でも、教義の健全さでも、私たちのなす働きの量でもなく、また私たちが保持する信仰の物差しでもありません。ただ私たちが主を深く並外れた仕方で知るという事実にあるのです。

これはあらゆる他のものが過ぎ去って行ってもいつまでも残る一つのことなのです。これは私たちが亡くなったあとでも私たちが恒久的な宣教のためになすことなのです。私たちは他の人々を多くの方法や手段で手助けできるかもしれません。しかし、それは地上のいのちに関する限りであります。私たちの他の人たちに対する本当の奉仕は主を知ることに基づくものなのです。

(今日の箇所は On Knowing The Lord の抜粋引用訳です。より理解を深めるために前後増し加えて訳しましたが、直接の原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003163.htmlです。今日で101回目の訳出になりました。不十分で稚拙な訳で恥さらしを繰り返していますが、ひたすら主を仰ぎ見てスパークス氏に導かれつつ、「主をより深く知る旅」を続けたい思いで一杯です。)

2011年4月24日日曜日

自縛(自己の縄目)からの解放

10日ぶりに花みずきの木に出会いました。すでにこんなにきれいな花が咲いていました。
金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(新約聖書 使徒3:6)

引用聖句 ヨハネ5:1~9この足なえの人の話にある事柄の核心はヨハネ5:5にあります。「そこに、38年もの間、病気にか かっている人がいた」この背景にあるユダヤ教とは何でしょうか。それはイスラエルの荒野における旅が38年間の放浪であったこととつながりがあることはほぼ間違いが ありません。イスラエル人はどんなに不具の状態にあったことでしょうか。彼らがエジプトからカナンへ旅するのには11日間で良かったのに、38年間もかかり、その間本当に一歩たりとも進めなかったのです。彼らは自らの自己本位の生活に縛られていたのです。彼らは無能力で絶望的な不具の状態にありました。なぜなら自己本位の生活に支配されていたからです。皆さんにはその自己本位の生活がどのように荒野の生活で支配的であったかをお話する必要はないでしょう。彼らはどのように神に仕え、どれだけ神に喜んでもらえるかという光を通して少しも見ることをせず、どのように自分自身が愉快になれるかという光のもとですべてのことを見ていたのです。あらゆる彼らの不平や反抗は自らが欲したものが何も得られなかったことから来ていました。それは神様が望まれたものではありませんでした。彼らは全くの自己中心的な人々であり、自己本位の生活が彼らの寝床であり、その寝床に不具なからだを横たえていたのです。彼らは起き上がって神の目的に向かって真っ直ぐ行進することは決してありませんでした。いいでしょうか。それがユダヤ教の背景であります。そしてイエスはこの病気の人を立ち上がらせる時、ユダヤ人のいる前で、イエス様による正しい実例として取り上げておられるのです。

新しく天のイスラエルとなった人々は、自己本位の生活から神様を中心とする生活へと解放された人々により構成されています。彼らは霊的な歩みをイエス・キリストによって行ない、今や主の歩みのとおりに、強くせられて、歩くことができるのです。

皆さんは、ペンテコステの日の後の最初の奇跡が、エルサレムの宮の門にいた(イエス様が地上におられて歩かされた人とはまた別の)一人の足なえの人の立ち上がりにあったことにあるのは、大変意義あることだったとは思いませんか。これらのことは興味ある本を作るために一緒にまとめられるにすぎない、結構な物語にとどまりません。神様はご自身がなさることをお知りであります。そして神様がクリスチャンが誕生した時の最初に行なわれた記念すべき奇跡とは、動けず足なえの状態にあった人を立ち上がらせなさったことにあります。その時、主は言明されました。すなわち、この新しいイスラエルはこの(歩けないという)無能力から解放され、自分の足で霊的に歩く者とされたのだ、と。

何と周囲には証を失ったクリスチャンがたくさんいることでしょうか。彼らは自分の足で歩くことが出来ないのです。それだけでなく他の人々もそのような状態に放置されているのです。皆さんはその人たちを救い出そうと試みておられます。ところで彼らは一足、二足歩むかも知れませんが、再び転んでしまうのです。多くの方々がそのようであり、皆さんは彼らが自分の足で立ち上がれるように人生を費やすことが出来ます。

彼らから出ている、いのちそのものを心配する事柄とは何ですか。また、全く望みを失い、足なえの状態になっているので、歩けなくさせているものとは一体何ですか。それは自己本位ということであります。そのことについて誤解しないでください。それはある形を取る自己であります。注目されたいとする自己であり、自らを誇ろうとする形を取っている自己であります。

この貧しい気の毒な人は自らの絶望状態を知っていたので解放され、イエス様がおっしゃったことを信じたのです。彼はイエス・キリストを信じました。そのことは彼が自らを捨て、信じたことを意味しています。そうなんです。それが秘訣です。私たちはみじめな自分から転換し、もはや自分というものに支配されなくなり、きっぱり言うようになります。「私はみじめな自分と関係がなくなりました。私は自分自身をイエス・キリストに預けます。私は自分を埋葬するという偉大な第一歩を歩みます。」イエス様はそのような人を決して気落ちさせられません。

(今日の文章は The On-High Calling - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003162.htmlです。このシリーズは以前にも1/30「信仰の創始者・完成者であるイエス」3/26「いのちを伝える使命とよろこび」でお目にかけています。要点をつかまえた文章が続いた記憶があります。なお今日の章は比較的読みやすい英文が続き、興味ある記事が続きます。是非一読なさると聖書の真髄がこんなところにあるのかという思いにさせられ、もっと聖書を注意深く読んでみたい思いに駆られるはずです。ただし今日の訳文そのものはかなり意訳につとめており、果たしてこれでいいのかと思っていますので、眉につばをつけてお読みくださるとありがたいです。)

2011年4月23日土曜日

羔の血にて我が家門は塗られているか!

ムクドリ 駆け抜ける姿 かわいらし
確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。(新約聖書 2コリント13:4)

神様の働きの領域の中でもっとも(人に)損害を与えられるもののひとつがあります。それは結果的に恥と混乱、多くの悲しみにみちびかれるものですが、人間の生まれながらにして持つ魂の力です。それは強い意志と決断力があり積極的でもあるクリスチャンによって目論まれているものですが、彼らは自らの霊的な状態に気がついたことがないのです。がんこなまでの不屈性、決断力や解決力と全く別のもの、すなわち霊的な賜物である忍耐心、持続力、神の与える内面的な強さの間には区別があるからです。

主はしばしば前者を打ち壊して後者のものに置き換えなされねばならないのです。パウロの何事も貫徹しようとする驚くべき意志について語らないでください。パウロに主の驚くべき恵みがどんなに継続的になされるか語ってもらいましょう。

男であろうと女であろうとカルバリが「私」の終わりを意味するという真理を本当に認識している人々なら、自分を主に明け渡して主が働かれる時はいつでも、炎のような剣がそのところにやってきて回っていることを知るのです。そこでは「肉」が、最初のアダムがもはやいかなる立場も見出せなかった領域に入り込もうと求めたがるところだからです。

個々人の意志の強さの特徴は頑固さ、冷たさ、厳しさ、口出ししかねない憤り、競争相手に対する猜疑心、妨害者に対する不寛容さ、超然さ、独立独歩、秘密主義、熱意などなどです。それに対して霊的な強さはつねに主にある愛、暖かさ、いのち、交わり、率直さ、信頼であります。もし主が古のいずれかの時のご自身の傑出した偉大な力に言及し例示を与えようとなさるなら、イスラエルのエジプトとパロからの解放を心に決められたことでしょう。エジプトは偉大な世界統治者でした。ところがエジプトは最後の一滴に及ぶまで神様に抵抗し続けたのです。

しかしこの権力を打倒した道具は何だったでしょうか。それは羔(小羊)とその流された血でした※。黙示録においてその終わりには、竜、すなわちサタンの全権力は羔によって打ち負かされます。羔は弱さと屈服の同意語であります。もし神の弱さがこの力ある破壊をなすことができるなら、神の強さで何か出来ないことがあるのでしょうか。

パウロはキリストについて言います。「 弱さのゆえに十字架につけられました」と、それからつけ加えて、「私たちもキリストにあって弱い者です」と。そうです。しかし彼はこうとも言います。「十字架によって主は勝利されました」弱さをとおして勝利はあるのです!

(今日の箇所は "The Flame of a Sword"の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003161.htmlです。題名は創世記3:24"He placed at the East of the Garden...the flame of a sword which turned every way..."から引用されています。「炎の剣」です 。スパークス氏はこの文章の前半で「もし、私たちが主に向かう聖さに関する偉大な原理を認識できるならどんなに良いことでしょうか」と述べ、神様との関係で二つの要素、血と御霊があることを述べています。この短い文章の中に触れられているのは最初の血、すなわち「十字架」上での主イエス様の流された血であります。※出エジプト12:12~14)

2011年4月22日金曜日

私たちをつまずかせないお方

清楚な花、どうして神様はこんな素晴らしい花を私たちに与えてくださったのでしょうか。
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(新約聖書 マタイ11:6)

神のことばは私たちが神様につまずく可能性があることに注意を払っています。どの箇所でもその可能性は全然起こるはずがないとか、起こらないだろうとは言っていません。主はどこででも、私たちが主につまずくような場合はないとは言われて来なかったのです。逆に彼は私たちがイエス様につまずき、転んでしまい、彼ゆえに落ちてしまう、あなたがたの好みの表現を使えば墜落する機会がたくさんあるだろうということを示して来られました。確かに、そのようになる場合・機会がたくさんあることでしょう。主は決してつまずかないとはおっしゃって来なかったのです。だから私たちもまたそのことを認める方が良いのです。

誘惑は決して罪ではありません。私たちのすべてはこんなふうに誘惑されるのです。それは多くの別の方法でも同じです。そして皆さんもご承知のように、誘惑は試みの別の言葉にすぎないのです。だから、あるところでは「試み」とも訳されています。そして「試み」、試みられること、もしあなたが誘惑されるということばを使われるならそうでもいいのですが、それにともなう悪は何もないのです。つねに主につまずくように誘惑されるたくさんの可能性が存在すのです。

主は牢獄にいる可愛そうなバプテスマのヨハネに向かって非難の言葉を送られませんでした。ヨハネはその時、自分のおかれていた状態のゆえに主につまずく危険性と背中合わせの状態にあったのです。主はヨハネの質問※ゆえに(気分を悪くして)辛く当たられませんでした。主がもし別の人間だったら恐らく次のように言ったかもしれません。

「だが、ヨハネよ、あなたはわたしを神の小羊と指し示しませんでしたか。わたしがメシアだと主張しませんでしたか。たくさんの群衆にわたしについて説教して来なかったですか。あなたがわたしについて信じていることを最大級の強力な宣言・確信を次々繰り返して用いたのではなかったですか。ところが、今ここであなたはわたしについて根本的な疑問を提出しているのです。何があなたを悪くしたのですか」と。

そうです。主は全然そのようなことは何もおっしゃらなかったのです。主は私たちがちりにすぎないという成り立ちを知っておられます。そこで私は言いたいのです。主は私たちが今現在、主につまずくかもしれない弱さに絶えず注意を払っておられる、と。けれども、主はもし私たちが主の道という「つまずきの石」につまずき倒れないなら、このことに特別な祝福をもたらされるということです。「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」つまずく可能性があります。その可能性にいたる理由もあるからです。

(今日の箇所は Blessedness of the Unoffended の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003156.htmlです。※マタイ11:3「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」を指します。この文章は1959年のメッセージの聞き取りの記録のようであります。この話は序の方であって話はさらに旧約のエリヤ、エリシャに移ります。主題聖句に2列王記2:1~15、マタイ11:2、ヘブル10:35などがあげられています。 さて「十字架」は主が私たちに与えられた最大のつまずきではないでしょうか。しかし「十字架」は私たちのすべての債務を帳消しにするものであり、復活の永生を約束するものであります。昨日も書きましたが、イエス様によって七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリヤも、疑り深いトマスという弟子も、一番弟子ペテロも、そしてイエス様の弟であるヤコブも「十字架」につまずいたのです。のちに使徒となったパウロもユダヤ人としてイエス様の「十字架」につまずいたのです。しかしパウロはのちに「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」1コリント1:18と言うことが出来たのです。)

2011年4月21日木曜日

Thou desirest truth in the inward parts

花よ我が 心となれ 日に照らされ 明日キリストの 受難日なり 
ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。(旧約聖書 詩篇51:6)

私たちの霊的な歩みのなかで神様はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神様は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神様は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。

これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神様はその方向に沿って働かれます。神様はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神様が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。

ああ、神様は私たちが神様の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神様は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神様はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。

三位一体の神、父なる神様、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神様はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神様がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。

(今日の箇所は Truth In The Inward Parts の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003155.htmlです。今日の箇所は短い文章で読みやすいですがやや粗雑な読み方しか出来ていません。詩篇51篇をひもとき味わわれると心の深奥部で主は私たちをどのように愛し慈しんでくださるかが分かり希望が出てきます。今日の家庭集会でベック兄は「主イエスのよみがえり力」について話してくださいましたが、真の愛を持たなかった者マグダラのマリヤ、真の信頼を持たなかった者ペテロ、真の信仰を持たなかった者トマス、真の義を持たなかった者ヤコブがそれぞれ復活の主と出会ってどのように新しく造り変えられ、真の愛、真の信頼、真の信仰、真の義を持つにいたったか、それはすべて1コリント15:3~8のパウロも経験した「復活」の主との出会いによると話してくださいました。これら5人の人はいずれも心の真実、すなわち神様の前に隠しようのない自己の姿をとことん認めさせられたのです。そこからただ復活の主に出会ったことが新しい人生の出発となったのです。私たちもまたこのよみがえりの主に出会うことが出来るのです。上記の文章もその一端を示すものであります。ダビデその人がバテ・シェバとの姦淫の末、どのように主によって立ち直れたか、この詩篇51篇は心の深奥の悩み、そしてそこからの離脱がどのようにして主によって可能になったか、語ります。)

2011年4月20日水曜日

人の思いと主の思いのすれちがい

知人からいただいた花
まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(新約聖書 ヨハネ6:53)

この方式はつねに肉にとって、つまり生まれながらの人間にとって反対となる方式であることを覚えましょう。ユダヤ人はお互いに言いつのりました。「この人は、どのようにしてその肉を食べさせることができるのか」と。しかしユダヤ人、すなわち宗教的な自己満足のうちにあった宗教的な人々だけが一緒に言いつのっただけでなく、こうとも書かれているのです。「そこで、弟子たちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」弟子たちでさえ、いつしかともに歩き続けることができなくなったのです。

弟子たちがこのような言い方のうちにある言外の意味に直面するようになった時、彼らはもはやその種の基盤の上に主との交わりを持とうとはしなくなったのです。肉は自分で事を行ない、計画を立て、整え、仕事を組織し監督し実行させることを大変好みます。肉はそのことを大変喜びます。

だから、皆さんがそのすべての物事の秩序を見て、神の方法は完全に依存と信仰の道、すなわち完全な命令のうちにある聖霊をともなうものだと言い、一切自らは手出しせず主があなたに話されることだけを行なう意志がなければならない、そしてもはやそれ以上のものはない(それは「わたしは自分からは何事も行なうことをしません」という宣言の意味するところですが)と言う時、それは生まれながらの人間に対する反対なのであります、もちろん宗教的なことにおいても。

私たちは絶えずそのことに直面しているのです。そうでないですか。弟子たちがアンテオケで祈って主の御心に関してその証拠を得ようとともに集まったことと、提案を議論し計画を立てるために集まり委員会を持つことの間には違いが存在するのです。もし生まれながらの人間がすべてのことをせず、整理もせず、命令もせず、全てのことを実行もしないのなら、その人は前進することは全然不可能だと思います。もし皆さんが計画を持って出て来ず、またその計画を話さず、あなたがしていることも話さず、統計数値を述べないなら、生まれながらの魂を持つクリスチャンは何事もなされないと思います。(しかし)その種の活動がいくつもなく、なされる素晴らしい事を体験することは可能なのです。私たちはそのようなことを純粋に実例として引証しているのです。適用は多くの方面に広げられることが出来ますが、これは思考を助けるものに過ぎません。

キリストにある神の全業績は信仰をとおして仲介される神のいのちの基盤の上にあるのです。それは別の言い方をすれば、キリストが霊的な道において、すべての基盤とならねばならないのです。 これは肉は反対しますが、御霊は満足するのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003154.htmlですが、何カ所も意味の不鮮明な訳になっていて申し訳ありません。この章の文章は今日追加訳出しました4/16「いのちと水」と同じところのものです。全体の題名は「隠れたマナ」となっていて、ヨハネ4:31~34;6:28~32,34,38,53~58;7:17が通読箇所となっています。)

2011年4月19日火曜日

御霊の働き

キリストの花嫁となられた方の葬儀式場の花、天国の花
あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(新約聖書 ガラテヤ3:3)

皆さんはガラテヤ人への手紙が書こうとしていることのすべてを知り、二つの特徴的な言葉を知っています。(その二つとは)「自由」と「子たる身分」であります。「 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)召使いでなく、また奴隷でもなく、子である身分であります。(神の)子であることの自由であります。それらは手紙の中での二つの重要な言葉であります。

けれども何がガラテヤでゆゆしきしばりとなっているのでしょうか。それらは伝統という、また律法主義というゆゆしきしばりであり、すべてそれに類似するものです。皆さん、あなたがたもご承知のとおり、これらのゆゆしき外装で動きがとれなくさせられるのは極めて容易いことなのであります。

キリスト教の全時代を通じてつきまとってきた危機はキリスト教自身を何かの機構に具体化し、固定化することにあります。皆さんは何らかの光、何らかの啓示、たくさんの真理のあるもの、それは真理の断片ではありますが、それらをお持ちであります。ところがそれを一つの体系として形成し始め、限界を設け、このことは人々が信じなければならない、この水準のところにまで来なければ駄目だ、このように振る舞わなければならないと言うようになるのに、そう時間はかからないのです。それが再びシステム化するということです。「あなたはこれこれをしなければならない・・・これこれをしてはいけない」そのことと旧約聖書が言う「汝はすべきである・・・汝はすべきでない」と言うこととの間に違いはないのであります。

キリスト教はその危機に陥ってきましたし、絶えずそうしてきているのです。それは大切な啓示を制限し、キリストをご自身がそうであるよりははるかに小さくし、真理を固定化し形式化するのです。「これがこれこれの方法である」と。そしてその言わんとすることは「これが根本的だ」ということであります。

今、皆さんに気をつけていただきたいことがあります。それは御霊が降臨したとき、すなわち使徒の働きが記録として残しているように、これらのユダヤ教の弟子たちが経験したことの一つがユダヤ教の縄目からの驚くべき解放であったということです。そして聖霊がどんな固定化された障壁も崩すはたらきを、いかになしたかということに注意していただきたいのです。

(今日の箇所は “Loose Him, and Let Him Go” の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003153.htmlです。敬愛するご婦人の葬儀に出席した。88歳のご生涯であった。月に一度は電話を寄越された。電話の内容はほとんどまだ主を信じていない方に福音を伝えたいがともに祈って欲しいという内容であった。ほぼ子どもの世代に当たる私たちだったが、「兄弟・姉妹」と呼んで下さり、こちらには決して年齢差を感じさせられなかった。これは普通の人間関係では考えられないことである。これもまた身近に体験させていただいた、御霊なる神様が働かれる結果でなかっただろうか。生涯、福音伝達の現役選手であった。かと言って若い時からのクリスチャンではなかった。外面的には恵まれた人生を送られていたが、人間が持つ内面的な魂の飢え渇き・葛藤をいかんともなしがたいことに気づかれ、60歳になられてからのクリスチャン人生であった。それゆえ、人々の救いに熱心であられた。まさしく「主を愛する」晩年のご生涯であった。E.M.バウンズと言う人の手紙に「私はニューヨークよりも天国に行きたいと思っています。天国のほうがずっとよいところです。」とある。また「神があなたを祝福して永遠のいのちに入れてくださるよう、またその日の早く来ることを、町に出て人々を無理にでも連れて来なさい。あなたの祈りによって、あなたの子どもたちを天国の入口まで運びなさい」とある。この敬愛するご婦人はまさしくそのとおり生きておられたように思う。)

2011年4月18日月曜日

再び、訓練をとおして

土曜日に行なわれた結婚式会場での花
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。(新約聖書 ヘブル12:7)

主はあなたの活動を閉め出し、不活動へと閉じ込められるかもしれません。あなたは恐ろしい時を過ごし、主は私を捨ててしまわれ、事態は悪くなるばかりだと言います。でもそれは本当ですか。なぜ痛みが増しているのですか。長い目で見れば、それは全部悪くなかったのです・・・すべて良かったのです。あなたは主を知るようになったのです。それに反して以前はあなたの全生活は事態に振り回されていたのです。あなたは閉め出されました。けれどもあなたは主を心の内側から知るようにされたのです。そして以前よりもはるかに優れた霊的能力を身につけ、今や外的状況をうまく処理できるようになっているのです。

主は誤解されていましたが、主はあなたに力を与えるために働いておられたのです。それはあなたを訓練して力を与えるためでした。このような成長にともなう痛みは嫌なものですが、増し加わる苦痛に悩むどんな人も助けることは出来ません。あなたは傍らに立ち、その人がその時を耐え忍ぶことを見ていなければならないのです。

そういうわけで、この成長は多くの様々な方向を通して、痛い訓練により行なわれます。その訓練は主が私たちを扱われる方法から発しているものです。私たちは悩みを通して学ぶのです。主イエス様でさえ、「完全に成長」されたのです。そうです、痛み苦しみを通して 、この意味で完全になられたのです。私たちも完全になるために同じ道を選ぶのです。それがこどもの鍛錬、訓練であります。それは体験を通して学ばされるものです。それが懲らしめであります。その懲らしめをとおして、私たちはこどもの状態を脱し神の息子とされるのです。幼児から主にある成人へと成長させられるのです。

(今日の文章は “Maturity - The Lord’s Desire For His People” の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003152.htmlです。土曜日知人の結婚式に出させていただいた。披露茶話会で知らされた真実もまた上記の文章を裏付けるものがあった。新郎は多感なおり、お父様と別れられ、それ以来自らに「お父さん」と呼びかける言葉を封印し続けた。その苦労たるや並々ならぬものがあったに違いない。そのことばを今度は新婦のお父様に呼びかけることになる。そこに万感の思いがあり、しばし絶句・涙され、会場にその感動は、またたくまに人々の心を一つにした。それを受けて新婦のお父様は果たして自分にそれだけの力があるだろうかと問いつつ、私たちには主イエス様のお父様があります。天の父なる神様に従うだけです、とご挨拶なさった。主の厳しい訓練を通して主イエス様の愛に目覚められ、主の愛を知られ救われた新郎ご夫妻の歩みを祈らされて帰って来た。)

2011年4月17日日曜日

目が開かれる人

菜種の花にカメラの焦点を合わせて
イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて(新約聖書 ルカ24:45)

今日の世界の状態を顧みますとき、私たちは霊的盲目の病弊のひろがりに深い影響を受け、圧迫されているのが現状であります。それが時代の根本的な病気であります。もし世界が患っている悩みのほとんどが、全部ではないとしても、その根っこをたどってみると、すなわち盲目であると言ったとしてもそんなに間違ってはいないでしょう。大衆が盲目であります。そのことは疑いがありません。ある特別な啓示のある日を仮定してみるなら、その日に大衆は盲目状態にあるのです。指導者が盲目です。盲目者に対するに盲目の指導者がいるというわけです。しかし非常に広範囲に見るなら同じことは主の民にとっても妥当であります。全く一般的な言い方をするなら、クリスチャンは今の時代に全くの盲目であります。

すべて新しく見えるようになることはどんなことも天からの働きであります。すべてに対して一度たりとも完全になされるものはありません。私たちにとって可能なのは見続けること、そして見ることはもっと完全に見ることですが、それはあらゆる肉の働きをともなうもので、私たちの力がなしうることでなく、(主によって)なされねばならないことなのです。霊的ないのちは始まりにおける単なる奇跡にとどまりません。最後までまっすぐ継続的になされる奇跡であります。

私たちは新しい啓示を求めていません。私たちは神のことばのほかに何か余分のものを持った方が良いと言ったり、暗示したり、示唆しているのではありません。ただ神のことばには私たちが決して見たことはないものがたくさんあり、それを私たちは見ることが出来るのだと主張しているのです。確かにすべての方はそのことに同意されます。まさしく見ることは、あなたが本当に見れば見るほど、ますますすべてのことに関して圧倒される感じを持つのです。なぜならあなたは短い人生で経験する力を越えて存在する、はるか遠くの土地の境にまでやって来たことを知るからです。

主は私たちすべてを目の開いた者にされる。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003151.htmlです。訳が稚拙であるためわかりづらい文章になってしまいまして申し訳ありません。スパークス氏のこのくだりは抜粋箇所が飛び飛びで理解するには全文通読が必要です。お忙しい方のためにスパークス氏の聖書引用箇所を掲げておきます。民数記22:31、24:3~4、マルコ10:46、51~52、マルコ8:23~25、ヨハネ9:1、7、25、エペソ1:17~18、黙示3:18、使徒26:18)

2011年4月16日土曜日

いのちと水

赤は「すおう」の花です。残念ながら、正面の木は水をやらなかったため、枯れています。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(新約聖書 ヨハネ6:63)

神の目的をよく理解し、それに専心することは大事なことですが、どのようにして神様が目的を実現なさるのかを知ることは余分なことであります。神様が用いられる方法を知ることはつねに別のことであります。

たくさんの人は神様の目的が何であるかを本当に理解しています。しかしその人たちが用いる方法は神様の方法ではなく、働き始める道は神の道でないために、主は自分たちを支えないことに気づいています。彼らは正しい方向に向かっているでしょう。しかし神の方法や手段との結びつきから逸脱して、無理矢理に自らその働きの責任を引き受け、力の源泉を探します。その結果疲れ果て、立ち往生し、神様の働きを実現するためのあらゆる方法や手段に頼らねばならないことに気づくのです。

なぜなら彼らは神様ご自身の支えを本当に享受していないからです。神様の働きは彼らの肩に重荷となっており、そうであると主は(その働きの)命令は出来ないのです。なぜなら彼らと主の方法、主の手段、主の時、主の目的の詳細との間に最も完全なつながりや共感がないからであります。

ところで主イエスの場合は全く正反対であります。細かい点にいたるまで主は父と密かな交わりを持っておられました。主にあっては、このことは一つの包括的な目的に達するための細かな従順となって表れていました。いくつかの与えられた事項にあって主によって必要とされた唯一の必要とはただ単に父なる神様が考えられたことを知ることにありました。それ以上の言葉を必要とせず主は行動されたのです。それが主の(父なる神様との)関係の根底にありました。

私たちは、主にあっては、なぜひとつのことがある方法でなされ、その時であり、別の時でなかったことや、なぜ用いられる方法があるものであって別のものであるべきでなかったのかを尋ねるために待たれたしるしを決して追跡できないのであります。父なる神様がそう意欲されただけで十分だったのです。説明はあとから正しいものであったという主張となってやって来たのです。神の意志を行なうことは、決して自分から動くことではなく、つねに父に従うその従順さのことでありました。それが主の場合に有効であったので、霊的な食べ物、強さ、エネルギーは十分供給されたのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003150.htmlです。 4/16当時はネット環境故障のため投稿できず、4/20の時点で後追い訳出することになりました。写真は4/20のものです)

2011年4月15日金曜日

燃え尽きない柴

私たちの資格は神からのものです。(新約聖書 2コリント3:5)

私たちは神の支配下で試練と試みの時を過ごすのです。その結果「主は私たちを欲してはおられない、主は私たちを必要としておられないのだ」と言うような心構えに陥ることはいとも容易なことであります。私たちはすべてなすがままになり、いかなることにも注意を払わなくなります。試練の下にくだかれ、役に立たないものと言われます。私は信じているのですが、主はそのように彼らを扱うためにいつも来られるのではありません。

エリヤは意気消沈して荒野へ逃げました。さらには山の洞穴へと向かったのです。しかし彼は主が関わってくださる前に、どこか他へたどりつかねばならなかったのです。「エリヤよ。ここで何をしているのか」(1列王記19:9)主は人が失望している時に決して人のところに来られず、再び使命を与えることもなさいません。「神は汝を失望以外のことであればどんなことも許される」(F.W.H.マイヤーズ 「聖パウロ」)なぜなら失望は神様に対する信仰がなくなっていて、神様は信仰をなくしている人には何もすることが出来ないからです。

モーセは最後の一滴を残すまで空っぽにさせられました。しかし彼は神様に対して怒らず、不同意になることもなかったのです。 主は何をなさったでしょうか。主は一人の預言者を作っておられたのでした。あらかじめその人は仕事を取り上げられたのでした。彼は主に仕える預言者の働きをし、用いもしたのです。しかしその人と彼が手がける働きの間には内面的な生き生きとした関係は存在しませんでした。それらは二つのばらばらの事柄であったのです。その働きはその人にとって客観的なものでありました。荒野の40年間が終わる時、モーセはこれに対して主体的になる状態に置かれます。何かがなされたのです。


その人が神様のお考えの生き生きとした表現にふさわしい状態へと変えられたのです。モーセは自分自身の考えをなくして、神様のお考えを入れる余地をこしらえたのです。彼は自らの強さを捨てましたので、全エネルギーは神からのものとなったはずであります。恐らくそれがあの火と柴が燃え尽きなかった意味でないでしょうか。それは「たとえ」であり、恐らくもっと大きな「たとえ」でしょう。しかし私が思いますのに、直接的な適用としてそのことはモーセに対する主の言い方ではないでしょうか。「モーセよ。おまえは大変弱い生き物だよ、砂漠の柴であり通常の人間のひとかけらであり、自分自身のうちには全然源泉となるようなものは何もないのだよ。けれども、おまえにどこまでも与え尽くす源泉があるのだ。おまえはおまえ自身でない、神の御霊、神様のエネルギーによって尽きることがなく、いつまでも保たれるものだよ」それがこの預言者が学ばなければならない大きな訓練でありました。「私は出来ません」「それでいいのだ」と主は言われました。そして「だが、わたしはあるものだ」と。

多くのことは主のしもべたちの生来の能力から成り立っていますが、通常は痛ましい結果をともなうのです。たとえば、たくさんの賜物がパウロから出ているのです。「パウロは生まれつき何と優れた男であったでしょうか、何という知性、何という教育、何という驚くべき才能の持ち主であったことでしょうか」そのことは確かに全部本当でしょう。しかしパウロに尋ねてみなさい。彼が自らの霊的な状態に真っ正面から対抗していた時、それらはどんな値打ちがあったか、と。パウロは叫んでいます。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょうか?・・・私たちの資格は神からのものです」(2コリント2:16、3:5)パウロはモーセのようにいのちの危険あるところを通らされました。パウロは言いました「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」(2コリント1:9)

( この文章の翻訳は当日ネット環境故障のため投稿できなかったので、4/24に行ないました。文章はいつもどおり Prophetic Ministry - Chapter 2です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003149.htmlです。教えられること多大ですね。なお訳していませんが、元旦の文章がここからの引用のようです。)

2011年4月14日木曜日

キリストの中にすべては備えられている

古利根川川縁、見事に咲きそろった桜堤 4/13夕べ
私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(新約聖書 ピリピ4:19)

神様は唯一の父としての責任を引き受けて下さいました。それらの責任を実行し、一人一人と御子のうちにあって、また御子をとおして出会って下さるのです。キリスト者が話すとき、その責任がいかに拡大されたものであるかはピリピ4:19のみことばに見いだされるとおりです。このことはキリストがキリストのうちにおられる神として認識され、知られていることを意味します。そしてそこには私たちがキリストに向かって徹底的に引き離される背景があるのです。しかし覚えて下さい。それは神様の賜物です。主が言われるには、荒野でマナを与えたのはモーセではなく、父なる神様であったということです。それから、それは人の働きの結果ではなく、神様の恵みから発しているということです。

あなたは霊的な成長のために努めるのですか。私たちは霊的に成長し、身の丈に達するまでどのように努力してきたことでしょうか。また霊的ないのちを維持するためにどんな重荷を負ってきたことでしょうか。私たちは霊的な生活のためにほとんど全責任を引き受け、まるですべてが私たちの働きにかかっているかのように、祈りにおいて、またみことばにおいて、そして主にお仕えするために労し努力し精魂をつめてきました。誰もが私たちが祈りやみことばがほとんど乏しいとは思わないでしょう。また私たちが霊的な生活がどんなものであろうと気にする必要はないと言っていたとは思わないでしょう。

しかし、自分自身で責任を引き受けることと神様がその責任を引き受けて下さったのだと知っていることの間にはちがいがあるのです。そして、神様が責任を引き受けて下さるのですから、私たちは神様と協同する者でなければなりません。私たちが正しい者とされるために働こうとすることと、私たちは正しいと認められたから働くこととの間。また完成のために働こうとすることと、完成はキリストのうちに獲得されているから働くこととの間。これらすべての間に違いがあります。そのちがいは単なる技術的なことではなく、実際的なことであり、大きな価値あることなのです。

時々、主が私たちに次のように言われることは必要なことです。「ご覧、あなたは自分で祈りをはるかにたくさん積み重ねている、また聖句も仕事としてはるかにたくさん読んでいる。そして無意識のうちにすべてのことはどんなにたくさん、また熱心に祈るかによると思うようになっている」と。だからあなたは外へ出て行って他の人々に自分の祈りの生活について、自分がいかに戦っているかを語ります。あなたは意識していないが、それはこういうふうに生活することが自分の成長に大事であり、他の人々にとっても重要だということをほのめかしているのです。(しかし)それは原因ではなく、結果であるに違いありません。「すべてのものの原因、奥義、源泉はわたし自身(キリスト自身)にあるのです。時々あなたはがんばることをやめ、わたし(キリスト)のうちに、愛される信頼のうちに休む必要があります。そのことをもっと学びなさい。そうすれば、あなたはもっと祈り、わたしももっと事をなすことができるのです。」と。

( 今日の箇所は Knowing God in Christ - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003148.htmlです。時ならぬネット環境の崩れで投稿し得ませんでした。頭には訳文があるのに、パソコンがないと出来ないのですね。ほとんどネットロボット化している自分に気づきました。)

2011年4月13日水曜日

主の訓練

花の蕾、5月にはどんな花を咲かせるでしょうか?
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。(新約聖書 ヘブル12:6)

地位と召命は子である自覚に基礎づけられておらねばなりません。その自覚なき民は神の前に無価値であります。)子たることの目的とは何でしょうか。それは私たちが霊的な責任のある地位につくということであります。主なる神様は決して神の子以外に「表面的、形式的に子である人々」に責任を与えられることは決してありません。そのために主は私たちを訓練されなければなりません。それは私たちが子である自覚を持ち、神様のために責任を取ることが出来るところまで連れて行かれるためであります。主は私たちが霊的に大人になり、完全に成長することを求めておられます。

このことは何かの聖書学校で取得できるものではありません。また、人々を「宣教」へと追いやることでもありません。神様は決して形をとおして働かれるのではありません。そうです。神様は私たちを神様の学校に連れて行かれるのです。その学校に連れて行き、訓練を施されるのです。もし主がそうして下さるなら、祝福があります。ただ神様の学校は単なる学校教育とは大変ちがったものがあります。

主のことばに「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあるとおりです。「主が受け入れる」ということばに目を留めて下さい。このことばにあたるギリシヤ語の正確な意味は、「受け入れる」でなく、「地位を与える」という意味があります。神様は私たちのうちに成長があるようにとつねに求めておられるのです。その状態において主は私たちを信頼することが出来るのです。

神様が私たちを取り扱われる時は、その背後に主が私たちを信頼して下さっているという驚くべき確信があります。主は私たちを信頼できる者としてくださっているのです。私たちは単なるしもべ、機械の部品であることだけを求めるのでなく、父なる神様と一体になった子、またその手に霊的な責任を与えられる子であることを願うのです。このことを真から認識するに至れば、なぜ神様が今なさるとおりに私たちを扱っておられるかを理解し始めるのです。しかし(それだけでなく)神様がその中におられるから私たちはその目的も確かだと知るのです。神様は神の子どもを試練から脱出させて下さるのです。

(今日の箇所は Christ Our All - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003144.htmlです。文中「表面的、形式的に子である人々」と訳者が独断で訳したところは「official people」がその原語です。要検討の訳だと思います。ご意見をお聞かせください。なおこの文章は3/14「子であることの栄光」に続く文章です。)

2011年4月12日火曜日

天からの啓示にそむかず・・・

震災一月目の昨日は曇天から一転雨模様になった。直前古利根川の小学校近辺で見事な桜に出会う。その後電車に乗って出かけたが、車内で地震にあった。東日本に繰り返される地震一体いつになったら終息するのでしょうか。
主が・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず・・・(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)

私にはわかりませんが、使徒たちは、もしパウロが会いに行っていたとしたらどんなことを言ったでしょうか。けれども、パウロが経験した啓示を持たず、またパウロが異邦人の使徒として召命を受けたのに、受けていなかった使徒たちは、パウロが経験したことに対して穏健になりなさいとか注意しなさいと助言したかもしれません。彼らはパウロに、あなたは騙されているのではないか、その導きは間違っているのでないか、よくよく考えなさいと話したかもしれません。こんなことは以前何も経験しなかったからです。(このことに関してパウロは独断的だと言われ、それゆえ偏向的に受け取られたかもしれません。)

交わりはつねにいいことでありますし、体験は役立つという点ではつねに用いられるべきものであります。それに対して、心から話をし主の道が私たちのためであることを大変明確にすることが主にとって問題である時、私たちは主に対する応答をいかなる方法でも自ら区切ってみたり、主への服従を妨害するような影響によって屈服させられないように、大変注意深くあらねばなりません。

あらゆる決まりからの孤立があり、天からの啓示をおとしめることでしょう。もし本当に他の人々が御霊の支配下にあるなら、助けになるでしょうが、天からくる幻を実際に目の当たりすることにあっては肉による完成はなされないことに注意しなければなりません。私たちはしきたりに問うてみたり、常識的に受けとめられることは何なのかと尋ねたりするかもしれません。一般に受けとめられることを重視するなら、あなたは後退することでしょう。

主はあらゆる方面の単なる自由契約者には反対されます。主の命令は主のからだ(すなわち教会)にある交わりです。それにもかかわらず私たちが主が私たちに言って来られたことに関して、ある種の生来の影響に屈し、人や物を支配する要因から勧めを受け入れ、自分たちで方向を定めるなら、自由をなくし、おそらくは天からの幻には従わなくなるでしょう。こんなふうにして損なわれた生涯の数々を私たちは知っています。

もし主のことで交わりがあるなら、交わりを用いましょう。けれども私たちはその上で次のことを確信させていただきましょう。私たちは外面的に物事をとらえないということ。また光のうちになかったり、いのちのうちになかったり、天的な良きことでなかったりする影響には屈しないこと。最後に完全に聖霊の支配下にあること以下の何ものからの方向づけも受けないこと、以上であります。

(今日の文章は That Which Was From The Beginning - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003143.htmlです。訳者の英語力のなさで誤訳の恐れを覚えます。文章全体はアブラハム、モーセ、ダビデ、エチオピアの宦官、コルネリウスなどの例をあげ首肯的であります。以前にもこの文章からは訳してあります。2/11「信仰とは啓示に従う道」というのがその題名です。今日の文章の前の方に当たります。今振り返ってみるとそちらの方の文章も今だったらこんなふうには訳さないのにと思ったりするところがあります。一年のちに、もし許されれば推敲し直したいです。とうとう原発はチェルノブイリと同程度と見なす発表がなされたようです。ショックです。でもこのことも主から来ていることです。厳粛に受けとめて自己のなすべき責任を主から教えていただきたいです。東北の被災者の方々の上に心から主の上からする慰めがありますように祈るばかりです。)

2011年4月11日月曜日

滅びざるものは何か私に悟らせて下さい

「桜の園」のひよどりさん。何を食べるのだろうか。桜餅か?
この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。(新約聖書 1コリント3:13)


私は皆さんが主を愛しておられることは疑ってはおりません。そのことについていささかの疑問もわきあがろうはずがありません。けれども、もう一度申し上げたいのです。私たちが取り囲まれているのは大きな(キリスト教という)体系・機構ではありますが、それは大変複雑に入り組んだものになっており、その上その多くの部分は主イエス様とは関係がないものであります。人が持ち込んだものであります。人間が主の事柄に手を差し入れ、人間が自分自身の考えで事をなし、それゆえに多くの事柄は人から出ているのであって、主からは出ていないのです。

その結果、私たちがキリスト教について言うのは、一般的な考えだけでなく、私たち自身の考えであります。このことは私たち自身についてあてはまることです。私たちはキリスト教と称されるものに入り込みその責任を引き受けています。けれども大変多くの除去しなければならないものがあり、本来の単純なものに戻さねばならないものがあります。すべてのうちで本来なくてはならないものは主の御臨在ということであります。私たちは知らねばなりません。すなわち、主は私たちとともにおられるということ、そして主は私たちがなすことのすべてのことのうちにあって私たちとともにおられ、このことは私たちの心の中に端を発していなかったということであります。私たちの意志や感情において始まったことでなかったということです。それは私たちの魂がよくなしたものではなく、詳細にわたり聖所である主から生じたことであります。まるで主イエス様が経験なさったように、あらゆる細かいところに至るまで、父なる神様が私たちのところに来て下さったのであります。


それは私たちをもとに戻させ、ひざまずかせるのに十分であるはずです。私たちの働きを一貫するものとなさしめるはずであります。私たちにとって必要なことは、時々立ち止まり、主に自分たちのなしていることを問うことであります。「このことは神様から出ているのですか、それとも自分自身から出ていることですか。このやり方は神様のみこころを行なおうとしているのですか、それとも自分のやりたいことをやろうとしているのですか。主がこのことのうちにおられますか、それとも私たちがすでにやり始めたことですか」と。


皆さんにもお分かり願えるように、それが大変決定的なことなのであります。誤解しないで下さい。人からしか出ないものはいずれ消え去るのです。早かれ遅かれふるい落とされることでしょう。すべての人の手のわざは火によって真価がためされるのです。みことばはそう語っています。

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 15 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003142.htmlです。この文章の後にスパークス氏がどうしていわゆるキリスト教と称するものから離れて、啓示によって主イエス・キリストを知るようになったかの証が述べられています。1964年の2月10日のマニラでのメッセージのようです。それまで牧師としてまた聖書を丹念に教えていた彼がどうしてそれが主イエス様を妨げるものとなったかを具体的にいささか口ごもりながら語っています。
I do not want to talk about myself, but I want to help you by illustrating. For many years, I was what was called a minister in the denominations. I was a minister of what are called churches. I was a minister of two denominations at the same time. So I had the big religious buildings. And I wore a clerical collar and attire, and I was in that whole system of organized Christianity. I had a big pulpit. And I preached sermons, and I was paid to do it. Well, I was very earnest. I really believed that I belonged to the Lord. My heart was reaching out to the Lord.But, the time came, when the Lord showed me Jesus Christ. He began to reveal His Son in me.・・・・・

2011年4月10日日曜日

ああ、主よ、あなたこそ、芳醇のいのちを与える「絞り器」です!

ムクドリの 語らうは実の あるやなし
私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり(新約聖書 2コリント1:8)

主イエス様は「わたしはまことのぶどうの木です」とおっしゃいましたが、それはあらかじめ自分についてただひとりで絞り器でつぶされることを預言なさっていたものです。十字架が主にとっての絞り器でありました。十字架上で主はどんなにつぶされなさったことでしょうか。主は粉々に砕かれたのです。けれどもその砕きからあなたにもわたしにもいのちが与えられたのです。そのいのちは全世界の民のかなりの数の人々がいただいてきたものであります。それは、ある程度、主のからだである教会において真実であります。

いのちがこの世に入って来たのは、教会の破壊、砕きから派生したのです。そしてそれはすべての成員、すなわちぶどうの木の枝すべてにとって真実であります。もし私たちがこの真実で、生き生きとした宣教を満たしたいなら、悩みを通して、圧搾器を通して、粉々に砕かれることを通して初めて可能なのであります。パウロは申しました。「私たちは耐えられないほどの圧迫を受けた」(2コリント1:8)、しかし、いのちは人が押しつぶされることによって与えられたのだ、と。私たちが今話しているのは説教や聖書の教えではありません。主のいのちが私たちを通して与えられる主の偉大な宣教について話しているのです。それは、他の人々に説教や教えや生き方を通して伝えられるかもしれませんが、もし宣教がイエス様のいのちであるなら、苦しみの経験のうちからしか出て来ないものであります。決して苦しんだことのない説教者や教師はいのちを伝えられないのです。

いかがでしょうか。このことはそれほど楽しいようには思えません。しかしこれが本当のことなのです。もっともすぐれたお医者さん、看護婦さんは自分で何らかの痛みがわかっている人であります。何人かの方々はまさしくあなたをケースとして取り扱うことの出来る専門家でしょう。でもあなたはケースに過ぎないのです。そうでなくあなたを人間として、あなたを癒すことの出来る人がいるのです。

もしあなたがその理由を探し求めるなら、あなたはそれらの人々が自ら苦しんだ経験を持っている方だとわかるでしょう。彼らはあなたが苦しみにあっていることをほんの少ししか知れませんが理解できるのです。私たちはこれまでずっとヘブル人への手紙を読んで参りました。そこにはこう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。・・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。・・・主は試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル4:15、2:18)主イエス様がぶどう絞り器そのものの道を取られたお方です。だから私たちは恵みを受けたのです。

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003141.htmlはです。この文章は3/26「いのちを伝える使命とよろこび」のあとに位置する文章です。ムクドリは写真に見える以上にもっとたくさんいました。彼らはただひたすら餌を求め、また四方を警戒しながら歩み、飛び立ちます。そんなムクドリの可愛い姿の一瞬です。)

2011年4月9日土曜日

建物全体がキリスト

わが町の図書館の前庭にはたくさんの草花が植えられている。「草ぼけ」である。
しかし、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(新約聖書 1コリント2:14)

それから、パウロの言葉の背景には、土台であるキリストについての言及があり、彼が言うには何人かの人がその土台の上にたくさんのがらくたやまじったものを建て上げているというのです。私たちが調べるなら、がらくたとは何かを知るのにそんなに探しまわる必要はありません。パウロがこんなに様々な材料で何を言おうとしたかリストをあげる必要もありません。「金、銀、宝石、木、草、わら」1コリント3:12 皆さんは彼の手紙とその前後関係を見さえすれば良いのです。そうすればすぐに彼が何をそこで言っているかがわかるでしょう。「コリントの皆さんはまずキリスト教を自分たち自身の努力で築き上げようとしています」と言うかのようであります。「ところで生まれながらの人間は・・・・」と。それがパウロがコリントの人々へ呼びかけた言葉であります。だから)コリント人への第一の手紙を見ると、たくさんの人間の魂の状態が描かれています。それは言葉の知恵であったり、世の知恵、好き嫌い、好みやえこひいき、嫌悪感、それにねたみであったりします。それはこの土台にとって良くありません。あなた自身の心の生活はキリストとのむすびつきがないのですか。そうであるなら、物の数に入らないでしょうし、貫徹するものでなく、雲散霧消するでしょう。あなたはキリスト教を感覚でとらえようとしていますか。とするなら、あなたはかなりバラエティーに富んだキリスト教の混合体を経験しているのであり、全然一貫性がなく、完全に継ぎ足しの産物の中にいるのにすぎません。

パッチワークのいくつかはかなり巧みなものであり、パッチワークのクッションやキルトは素晴らしく器用なものですが、計画はなく、矛盾があり、白日下ですべての色をさらけだします。それが言うなら感情の支配する魂の生活そのものであります。今日はある感情、明日は別の感情、といった案配です。あなたはキリストの上にその感情を置くつもりですか。それは全然キリストとともに歩むことではありません。あなたの心が支配する魂の生活は、すべてにわたって対立的な議論を繰り返し、何とか物事について精神的に決着を得ようと試みます。でも決してそれは出来ないでしょう。

ひとつのことについてかなり論理的な結論に到達したと思っても、何かが起こり、全体をひっくりかえすことでしょう。詩人のロバート・ブラウニングは一人の不信心者について言いました。「その不信者は見事に神なんか全然存在しないという結論に到達した。ところが日が沈むとともにその結論をひっくり返してしまうのだ」と言いました。あなたは決してそのやりかたを全うしえないのです。精神的な訓練と葛藤の領域にある魂は決してキリストと一致しないでしょう。

私たち自身の強い意志に関しても、自分で強いと感じているかもしれませんが、そのようには決してとらえられないのであり、再度その道を降りていけないものなんですよ。私たちがそこにたどりつくまでにそんなに時間はかからないでしょう。ああ、どんなに私たちの魂は私たちを恥ずかしめる存在でしょうか。私たちの感情にしろ、意欲にしろ、ものの考え方にしろ、不安定で恥多きものであります。 恥多きかな、私たちの思いは四六時中私たちを愚かな者にするのです。「彼に信頼する者は、決して恥をこうむることはない」(1ペテロ2:6)パウロは言います。この魂のいのちが繰り返す働きはキリストの上には決して来ないのです。それは対立であります。大事なのは、あなたがどういう者かではなく、キリストがどういうお方かであるのです。

あなたが見たり理解したり精神的に納得できないとき、いかなることも感ぜられず、全然感情がなかったり、またかなり悪感情を抱いているとき、それが一つの領域であり、まさしく私たちの実体なのであります。ところがキリストはそうではないのです。そのような時、私たちは言うべきです。主よ、これが私の病気です。これが私がどのようなものであるかの姿です。でもあなたは違います。私はあなたに信頼します。自分からも物事からも目をそらします、と。キリストが土台です。土台の上に私たちが築くもののすべてはキリストご自身であらねばなりません。キリストはただ単に土台であるにとどまりません。キリストがあらゆる分野にまたがる建物全体なのであります。

(今日の箇所は Features of Zion - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003140.htmlです。細かい文章にこだわっていると文意が通じないので相当強引にかなりの意訳に努めました。問題は果たして文意に即しているかです。自信がありませんので、疑問に思われる方は是非原文を併読されることをお勧めします。それにしてもスパークス氏の論の進め方がいかにみことばに基づいて徹底的であるかその一端を知る思いにさせられます。「シオンの特徴の数々」とも訳すべき表題の第4章であり、これらの文章の文頭にはChristianity Not a Matter of our Soul-Life「キリスト教は決して生まれながらの私たちの所持できるものではない」というサブタイトルがつけられていることを追記しておきます。)

2011年4月8日金曜日

「見よ」という強い言葉

花びらの 素直さ我に 乏しきか
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。(新約聖書 2コリント3:18)

beholding(注視する)」ということばは強い言葉です。それは、ちょっと見てみるということではありません。「凝視する」ということであります。それが新約聖書がbeholdingであらわしている意味です。私たちすべての者はキリストを凝視するのです。その時、キリストはご自身のうちに神のご栄光、神のご満足、完全な神の御心を映し出されるのです。

これが皆さんも私も霊において主イエス様を良く知り、主に心を全く向けなければならないという大切な点であります。私たちは聖なる場所を持たねばなりません。そこで主とともに退くのです。隠れ場を持たねばなりません。そこで主と時を思う存分過ごすのです。それは決してある特定の期間だけでなく、動き回っているような時にも、つねに私たちの前に主を置き続けることであります。主イエス様を見、知り続けるなら、私たちは主と同じかたちに変えられます。聖霊は私たちの関心を支配します。

皆さんも自ら心を傾けているもののようになるでしょう。それは間違っていますか。皆さんは人々がどんなことに関心を持っているかを知り、その関心事によって変えられて行く人々の性格というものを知っているでしょう。人々は絶えず頭を離れないもののようになるのです。人々は変わるのです。そして別の者になるのです。何かが人々をつかんで離さなかったのです。もはや人々は何か他のことについて考えたり話したりできないのです。それは人々の人となりを変えるのです。

ところでパウロは言いました。「私にとって生きることはキリスト、私はキリストから離れられない」beholding, beholdということばを使用するのは間違っていたのでしょうか。それでもなお善事であるにちがいありません。主が私たちの「頭を離れない」方となっており、絶えざる関心事であるならばです。私たちが主を見つめて離れないとき、御霊は私たちを主と同じかたちに変えて下さるのです。

(今日の箇所は Men Whose Eyes Have Seen The King - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003134.htmlです。昨晩も11時半強い地震がありました。当地は震度4でした。ゴーッという音ともに揺れ続けました。宮城が震源でした。一体いつまで続くのでしょうか。原発の破損とそれに伴い散布されかねない状況にある放射能飛散に日々おびえ、一方では援助の手を誰よりも必要としている東北の人々の存在、私の脳天を打ち砕くに十分な出来事が続きます。まさしくbeholdです。けれども同時に聖書は主をbeholdすることを一貫して主張しています。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」ローマ8:22~23

2011年4月7日木曜日

啓示をとおして

私はそれを人間から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

確信と確証はパウロのクリスチャン生活と奉仕の根本において正しいものでありましたが、それはひとえに次の一事によるものでした。すなわちパウロはすべてのことをイエス様にあって見たということです。すべてのものを・・・イエス様にあって。どんな解放が彼に与えられたのでしょうか。そうです、どんな解放が、です。私たちはこれまで度々話してきたことですが、この世は全く力がなく、狂信的なユダヤ人であるタルソのサウロをクリスチャン、そしてナザレのイエスを恋い焦がれる者とは決してなし得なかったのであります。いかなる力もこの世にはなく、そのような大転換はなし得なかったのです。しかしこんな風に、イエス様ご自身を見ることがまさしくその大転換をなしたのです。彼は解放されました。自由になりました。

あらゆる彼の書き物の中でガラテヤ人にあてた手紙がもっとも激しいものであることは驚くに値しません。キリストにある私たちの自由についてしるしたその手紙は「神様は私に御子を啓示され、その結果私はあらゆる事柄について自由にされました」ということで始まっています。あれやこれやには限界があり、そこから脱出して自由になるべきだと人々に話すことは無用であります。それは実がありませんし、無駄なことであります。実にどなたと行をともにするとも危険な道であります。

けれども繰り返しますが、もし私たちがただキリストをあらゆる神の重要性と意義と包括性を持つ方として人々に紹介し、聖霊が人々の心のうちにキリストを啓示することが出来れば、自由になるのです。そうなれば人々は二度と決していかなるものにも満足しないでしょう。それまで人々は宗教上の厳格な聖職者に制約されていたからです。パウロはユダヤ教から解放されました。それは他の何ものもなさなかったことであります。

逃れ道、自由への道、忍従の道はイエスを見ることです。学ぶことによるのではありません、すなわち数々の学校に通うことにはよらないのです。パウロは彼がかつて通った学校のすべてを・・・宗教のすべてを獲得しました。しかし、パウロはそれを学校教育によって獲得したのではありませんでした。だから、私たちも学校教育を通して獲得できないのであります。その教育の道とはクリスチャンや宗教上のすぐれた教授を指すのではありますが。しかし、私たちが言っているこの道は単なる精神的な、あるいは学問的な、または知的なものでは決してないのです。それは聖霊による働きなのであります。

( 今日の記事は Revelation of Jesus Christ - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003132.htmlです。)

2011年4月6日水曜日

奴隷状態からの解放

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(新約聖書 ガラテヤ5:1)

旧約聖書では「レムナント(残りの者)」、新約聖書では「勝利を得る者」と書いていることばには、奴隷状態から解放され、自由な空気を吸うようになるという別の意味があります。それは素晴らしい絵であり、勝利者にふさわしい自画像であります。私はその言葉を言い換えるためにそれ以上の言葉を知りません。私たちの幾人かは、クリスチャン生活やその歩みにおいてすら、奴隷状態からの脱出であることを知っています。何と、キリスト教組織や秩序、期待、必要の古き拘束があったことでしょう。すべて古き輪番制やしなければならないことから自由にされたことでしょう。

キリストとともによみがえらされるだけでなく、死んだ古い着物を脱ぎ捨てて、霊的に解放された自由な空気を吸うことになったのです。それはこのことばがレムナントと呼ぶものであり、キリスト教にとっての特別な何かを意味する言葉ではありません。皆さんが教会の始めに見いだしているものです。主は重荷を持ち、暴君に支配されている、宗教的な国民のただ中にあって叫ばれたのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)

古きくびき、古き荷物とは何ですか。それらは人々を困らせ、疲弊させました。人々は死に瀕しており、主の慰めの訴え「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」によって引き出されたのです。それは規則にしばられた宗教、「汝はかくすべし」や「汝はかくすべきではない」という古いくびき、荷物であります。「あなたはしなければならない」や「あなたはしてはいけない」というものが、その全体系に築き上げられており、重荷であったのです。

「彼らは重い荷をくくって人の肩に乗せ」と主は言われました。「自分はそれに指一本さわろうとはしません」(マタイ23:4)だからこのレムナントに対する言葉は「奴隷状態から脱出し、自由な空気を吸う」ようなことを意味するのです。皆さんは「使徒の働き(使徒行伝)」の始めにそれらを見いだすでしょう。「勝利者」はこの始めの体験に戻る人々であります。初代教会の人々はより深い教えの何かを、またより輝く光の何かを体験したのではありません。一般の状況に比べて、不幸であるのに、勝利者としてあらわされたものは何よりもキリストにある新生のいのちと満たし(freshness and fullness of Christ)でありました。

(今日の箇所は Overcomer Testimony - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003131.htmlです。彼は勝利者について5つを指摘します。「死で朽ち果てることのない凱歌」、「奴隷状態からの解放」、「優れていることの堅持」、「難民の意識」、「生き残り」の5つです。今日の項目はたまたまその二番目に当たる文章の全訳になりました。そのためにいつもに比べると多少意味が通じやすい文章になっているのではないでしょうか。)

2011年4月5日火曜日

教会とはどんなところか

捨て場にて 咲くヒヤシンス 輝けり 教会また 斯くの如きか
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。(旧約聖書 ゼカリヤ4:6)

神殿の幕が裂かれて、イスラエルが捨てられたことはあなたがたを震駭させる極めて印象深いことではないでしょうか。イスラエルはずっと型を証するために召されていたのです。キリストが来られて、すべての型を成就されました。すべての型の中心である神殿の幕、すなわち神様を人から遮断し続けたものが今や処分され、(神への)道が開かれました。今や様々な型は必要なくなりました。だから、型の管理者が型から離れます。これは型がたどる道でなく、真実な神のみこころであり、よみがえられた主との天的な結びつきの恵みであり、目論まれているすべてのことには神のご計画があります。(This is not the dispensation of the types: this is the dispensation of the reality, the dispensation of a heavenly union with a risen Lord, and of all that that means.

私たちの危険は型を復活させることにあります。様々な型は消滅したのです。それがヘブル人への手紙の全般にわたるメッセージです。旧約聖書の外形的秩序は脇にやられ、今や獲得するもののすべてはキリストご自身であります。キリストが祭司です。もはや旧約聖書の意味する地上での祭司はいなくなりました。キリストが犠牲(いけにえ)です。他のどんな犠牲も必要ありません。キリストが天幕です。神殿です。教会です。

教会とは何ですか。教会はキリストであり、キリストがご自身との生き生きとした結びつきのなかにおられるところです。つまり、二三人がキリストの名前において一緒に集まるところはどこででもその真ん中にキリストがおられるというところです。それが教会なのです。特別な建物を数々建てて、それらを「教会」と呼ぶのではありません。「教会」と呼んでいる特別な組織や宗教的な機構を持つことでもありません。よみがえられた主との生き生きとした結びつきの中にある信者が教会を構成するのです。それが実体であり、形ではありません。つまりキリストのからだ、人間の制約はなくされています。今やよみがえられたキリストとの結びつきにあって、すべての人間の制約は越えられるのであります。これが生き生きと存在を現されるよみがえられたキリストの不思議さの中の一つであります。

私たちは人間の数々の能力よりはるかに多くの能力の領域へと導かれています。そしてそこでは、私たちのうちにキリストがおられるがゆえに、自然には全然出来なかったことが出来るのです。私たちの関係は新しくされるのです。それらの関係は天との関係になります。私たちの源泉も新しくされます。源泉は天にあるのです。それがあの使徒がコリントの人たちに神様は弱さ、愚かさを選ばれたのだとなぜ書き、また言ったかの理由です。それらは軽蔑される一つ一つのものです。逆に主は軽蔑されないこと、すなわち賢い者、力ある者を無いもの、軽蔑されるものとされるのです。なぜ神様はそうだとされたのでしょうか。なぜならそれは権力によらず、能力によらず、神の力によるからであり、この世のあらゆるもっともすぐれた力、能力を越えて、神ご自身の力や精力、能力があることを示すためであります。

(本日は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003130.htmlです。 訳の特に怪しげなところは英文を併記しました。この文中のdispensationは英語圏キリスト者が多用する用語のようで様々な訳し方があるやに思います。私はいまだにこの単語が苦手です。聖書を通していつか教えられたいと思います。読者諸氏の中で適切な訳をしてくださると大変ありがたいのですが・・・)

2011年4月4日月曜日

復活の力を知りたい

古利根川、今日の桜模様
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になりたいのです(新約聖書 ピリピ3:10)

十字架はよみがえりの「いのち」の目的であって、単なる始めではありません。もしあなたがたがたとえ他のどんなことを忘れるとしても、そのことは覚えていてください。十字架は始めであることはもちろんですが、よみがえりの「いのち」の目的なのであります。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり」とあるとおりです。

人々から私はピリピ人への手紙の3章を示され、次のように尋ねられたことがあります。「なぜパウロは死を目的にしたのですか」確かに別の言い換えが正しいように見えます。「私はキリストの死と同じ状態になり、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って」と言い換えることです。けれどもそうではないのです。文章に間違いはありません。

その順序は聖霊から来ています。復活の力は死があったことを前提にしていますが、まさしく復活の「いのち」が十字架へと導いているのです。よみがえりの「いのち」の力の中にある聖霊はつねにあなたがたをキリストの死と同じ様になるようにと十字架へ引き戻し導いておられるのです。死に属するすべてのものを無視することが「いのち」のまさしく特性であります。復活の「いのち」の力そのものは、死が打ち滅ぼされるところへ私たちを連れもどすことにあります。そことは私たちの主イエス・キリストの十字架以上にふさわしい場所はありません。そこにおいて生まれながらの命は捨てられているのです。

だからパウロは言います。「・・・キリストの死と同じ状態になり・・・」その言わんとするところは絶えず死の側に立ち、徐々に弱くされることです。そのことは私たちがこれまで言ってきたように、主とつながりをもって生きることの結果であります。あなたがたにとっても私にとっても、外見上みすぼらしくなることでありましょう。それは、もし私たちが復活の力から完全に離れ、もうすでに主の「いのち」を知っていることから離れて、主の死と同じ様になったとしたらそうなるのです。

その時、私たちの望みはどこにあるのでしょうか。私たちの生き残りの力であるものは、私たちが十字架がより真に迫って来、それが体験となるときどうなるのでしょうか。もし主のよみがえりの「いのち」が私たちのうちになかったら生き残ることはないでしょう。だからパウロは祈っているのです。「私が、キリストとその復活の力を知るように」と、そしてそのことは完全に壊され得ない主の死と一つになることを意味しているのです。よみがえられた「いのち」の目的は十字架であります。聖霊はつねに十字架との関わりで働いてくださいます。それは復活の力が私たちのうちに益々はっきり現されるためなのであります。

( 今日の箇所は The Battle For Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003115.htmlです。今日は気温は低いですが、外は青空です。古利根川の桜を初めて見てきました。昨日一昨日と大阪の桜ノ宮に出かけましたが、桜はこちらより開花が早く一斉に咲き誇っていましたが、生憎うそ寒くカメラを向ける気になりませんでした。そのお陰で地元の桜をカメラに収めることが出来ました。例年になく寒く感じる春は今の私たち日本人の切ない思いを代弁しているようです。復興、復活はいのちの主により頼まなければ不可能です。十字架の主のお苦しみを少しでも知りたいと思いました。)

2011年4月3日日曜日

いのちの二重の法則

わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(旧約聖書 レビ記26:4)

贖われたいのちは私たちのうちでどのように働くのでしょうか。二つの方法があります。一方で、私たち自身の生まれながらのいのちを切り捨てて、神との交わりの基盤として働くのです。そのことは大きなことであります。そして、大きな根底からなされる働きであります。
 霊にあって幼く未成熟なかなり多くの人は、自分自身の生まれながらのいのちや精力や熱心さでことを行ないます。このようなものがすべて、生活や奉仕の双方において神との交わりの基盤となっています。それが未成熟さのあらわれです。私たちは、生まれたばかりの信者がつねに大変熱心であり、熱心さが神とのつながりの本当の強さだと思い、事実そのことが神との関係になっていることをかなりよく知っています。
 今、三月の風が吹き始め、花がさらってゆかれると、このような人々は冬が夏の代わりにやって来たと思います。彼らはこのことですべてのものをなくしたと思います。彼らは尋ねるのです。一体、何が私に起こったのでしょう、と。恐らく賛美歌の次のようなフレーズが口から漏れて来ることでしょう。
「どこに花はあるのかしら、私が知っていたあの花は。始め主にお会いした時のあの喜びの花は?」


しかし、)花が咲き終わるまでは果実は取れないものです。花が風に吹き飛ばされるのに続くのは夏であって、冬ではありません。もちろん私たちの誰もがちょうど良い頃合に花が咲くのを見ることを好むのですが、もし夏中ずっとそこに花が咲いているとしたら、奇妙に感じられることでしょう。私たちは言うにちがいありません。「ここには良くないものがある。花は終わったころなのに。」(ところが)近寄って見て、そこに期待に満ちたもの、はるかにもっと価値のあるもの(実)を見るのです。

このような早咲きはいのちのしるしであるかも知れません。しかし、いのちそのものではありません。早いいのちのしるしは早く春が来たのであって、冬が過ぎ、蘇生が緒についたことを示すのです。それはしるしであって、いのちそのものではありません。こういうように早く芽生えて来る(人間の)熱心さというものは、私たちが神様と結びついているという本当の基盤によるのではありません。私たちの中で起きていることのしるしであって、霊的な幼稚さをともなって過ぎ去るものです。このような熱心さは私たち自身からのものであり、神からのものではありません。神はしるし以上のものであります。神は駄目にはなさいません。いのちは働いています。そして、いのちはいのち自身をより強く、より深く、心の底からあらわされるものです。

このいのちの全行程を通して、私たちは、結局、神と関係がある私たちのものから、私たちのうちにある神ご自身へと変化が生じていることを学ぶ必要があるのです。 確かにたくさんのものがあって神と関係があります。しかし私はそれが終わりを正しく推し測るものになるようにと望んでいます。依然として私たちの心の中にあることは神のことを自分たちがなしているということです。私たちはそれらが神の考えであり、神の精神だと考えるのかもしれませんが、そこにはまだ神のことにかかわる人間の心やうまく作り上げた私たち自身の姿があるにすぎないのです。私たちは新しい主に関する考え方に場所を譲る必要があります。意志においても心においても、それは同じことであります。
 私たちはからだのことを念頭において今話し始めています。いのちの法則は主との関係において私たちの生まれながらの基盤を動かすように働きます。その結果、肉体の領域においてさえ、主のことに関わるために主のところに来れば、主が天的な事柄と関わる私たちのからだ的ないのちとさえなってくださるのです。そのことは事実です。そこには一方で私たちが漸進的に別のところに移らされているという証があるのです。つまり主の事柄において私たちは自分自身のうちにはいのちがなく、肉体にあってもできないということに直面させられているのです。それはつねに神の観点からそうであったのですが、私たちはかなり多くのことをなしていたと思ってきたのです。なぜなら私たちが駄目になり、生まれながらの自分では何もできないということを知るところまで動かされていなかったからです。ところが今や多かれ少なかれ私たちは神のことに関して私たちは、からだの面でも、出来ないことを悟るのです。

一方で永遠のいのちが私たちの生来のいのちを切り離すために神様とのつながりを持つ原理として働くなら、他方でその働きは全く素晴らしいものであります。それが「主のなさることは私たちの目には素晴らしい」ということです。

主は私たちの肉体のいのちとしてお入りになり、私たちが最善の時にできたかもしれないが決してできなかったこと以上のことをなさります。確かにそれは現在の可能性よりもはるかにまさったみわざです。なぜなら主はこれまで私たちは人間として最善であっても何者でもないということを知らしめて来られたからです。 いのちはそのことをなすのです。(主の与える)いのちはひとつの原理(肉の原理)を追い出し、別の原理(いのちの原理)を与え、いのちが働くようにその余地をつくるのです。

(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 9の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003114.htmlです。2/16「豊かないのちとは」で一部すでに訳出済みのところなどを引用しつけ加えましたのでかなり長文の訳になり、かえって意味が不鮮明になってしまいました。お許しください。)

2011年4月2日土曜日

自我が砕かれること

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。(新約聖書 ヘブル12:2)

十字架の苦しみは私たちを解放する道です。もし皆さんが自分自身の霊的体験を顧みられるなら、神様とともに歩む経験をいささかなりともしておられる方々は、肉が解放されることを知ったのは深い突き刺すような苦しみの時を通してであったことはよくご存知でしょう。肉は霊的な生活の中で解放されるのです。そのことは真実でないでしょうか。

そうです。私たちは霊において魂において苦しめられる時にさしかかります。私たちには主がなさっていること、主がこの苦しみによって試みられていること、背後に主がおられることがわかりません。だが、私たちは自分の経験の特徴を知り、私たちが被(こうむ)っていることがどんなことか知ります。そしてそれは続きます。

私たちはもちろん主に止めてください、早く終わらせてください、そこから私たちを解放してくださいと求めます。主は私たちを気に留められません。it is only those people who get out the other end who say, ‘Thank God, He did not take any notice.’ そうこうしているうちに、私たちは考えます。主は親切や良いことや正しいことを行なう以外の何物でもないのだと。しかし、主の御手のもとにへりくだる時、私たちは主がなさっていることを知り意識し始めます。恐らく、主は、たとえば私たちの誇り、主に頼らない心あるいは無責任さにメスを入れられている、と。それが浮かび上がって来る要点です。四六時中自分自身についてほとんど困惑させられることに直面させられます。もしそういうことがなかったらそれがそんなに私たちのうちに強力に存在したとは信じなかったでしょう。

もちろん私たちはつねに一般的に言って、人間の一人として人間にまた自分たちにもそれがあると信ずることにやぶさかではありませんでした。そうです。私たちは私たちにそのような誇りや何かがあると話されるなら、腹を立てることはなかったでしょう。しかし、そのことが厳しい試みに入り全てがお手上げになるまでは、どんなにそれが深く根ざしていて、恐ろしく強いものだとは信ずることがなかったのです。私たちは神様のための私たちの生活や働きはすべてその点で降参せざるを得ないと知りました。厳しい試練です。

皆さんは今私が話していることがお分かりでしょうか。私たちがその所与の時の問題点が極めて明白であると知り、それを主のところに持って出ることができ、そうすると、完全に究極的に取り扱われ、その時、私たちは新しい戸が開くのを発見します。それは新しい解放感であり新しい可能性です。そして私たちは次のことを全く良く知るのです。すなわち、主が背後におられることは私たちが考えているように、私たちを砕くこと、また駄目にすることでなく、拡充をもたらすことであり、解放をもたらすことであり、解放がつねに十字架、苦しみの線に沿って備えられているということです。拡充はつねにその方向のうちに存在するものです。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 1 の抜粋引用訳です。この「十字架といのちの道」とも訳せる題名のものはすでに1/1、1/7「自我、このやっかいなもの」、1/24「主に仕えるとは?モーセの場合」、3/3「わたしのことばは火のようではないか」、3/25「十字架の原則」と何度も引用のあるものです。1/1のものは訳していないものですが、現在のホームページ主催者がいかに重要視しているかがわかるというものです。それだけに訳業の未熟さが情けなくなります。なお原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003113.htmlです。文中の英文は何となくわかるような気もしますが、どうしても構文がつかめません。英語の専門家の方の訳を投稿してくださると助かるのですが・・・。なお後半の文章はややこしくなるので、というよりうまく訳せないので一部カットしました。)

2011年4月1日金曜日

クリスチャンとはどんな人を指すのか

神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(新約聖書 2コリント4:6)

ガラテヤ人への手紙は本当は次のようにまとめられるものです。クリスチャンはあらかじめ定められたあれやこれやの事柄を実行する人ではありません。禁じられているのであれやこれやを行なうことが禁じられている人でもありません。またあなたはこうしなければならない、こうしてはいけないという生活様式や秩序や律法体系に支配されている人では決してありません。そうではなくクリスチャンは次のように言うことばで理解される存在です。

「神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ1:15~16)もうひとつの唯一の言い方は、神は私の目を開いてイエスを見るようにされたであります。二つの言い方は同じです。ダマスコ(※)の道路はその場所です。「主よ、あなたは誰ですか。私はナザレのイエスだ」「神が御子を私のうちに啓示することをよしとされた」その二つは一つであり、同じことなのです。

内側にイエス様を見ることそれが人をクリスチャンにさせるのです。「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(2コリント4:6)「私たちの心を」とは、内なるところで、キリストが大層明らかになったことが、私たちをクリスチャンにさせるのだということです。クリスチャンがある事柄を行なったり行なわなかったりするのは、何かクリスチャンの決まり、なおさらユダヤ教以上の何かの決まりに命令されてのことでなく、心のうちにおられるキリストの御霊に従ってのことなのです。それがクリスチャンになるということです。

この基本は残余の全てのことに当てはまり、完成にまで導かれることです。なぜならそのことはまさしく日々成長していく事柄であるからです。したがって基盤は上から来ることに依存しなければならないのです。二つの事柄は全く一致しています。それは見ることです。キリストを見ることなのです。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 2   の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003112.htmlです。※ダマスコとは使徒9:1~19、22:3~10、26:12~18などに描かれているパウロの証に登場する場所です。この「霊的視力」とも訳せる主題のもとに書かれた文章はこれまでも何度か登場しています。1/27「私は見える」3/19「目が見えるようにしてください」がそれです。参考のためにそちらもお読みください。)